2020年に生誕180年、2021年に没後
90年を迎えた日本の偉人・渋沢栄一。
渋沢はなぜ「日本資本主義の父」として歴史
に残る偉業を成すことができたのでしょうか。
渋沢史料館館長として長年研究に
取り組んできた井上潤氏と、
評伝『乃公出でずんば 渋沢栄一伝』を
刊行した作家の北康利氏に、渋沢の歩んだ道、
そしていま私たちが学ぶべき教えについて
語り合っていただきました。
★井上さんと北さんの対談の詳細はこちら
───────────────────
(北)
作家の城山三郎さんは、渋沢は「吸収魔、
建白魔、結合魔」の「三つの魔」を持って
いたと言っていますが、(渋沢が明治政府で
携わった)改正掛の仕事を見ると、
まさにその通りだなと。
私が改正掛の仕事を調べていて特に感動したのは、
やはり自分より年齢が上で、
蘭学者としても圧倒的な実績のあった前島密を
まるで猛獣使いのように部下として使いこなし、
郵便制度を形にしていったことですね。
そして渋沢は部下のやった仕事を
自分の実績にしない。これも大したものです。
それに、渋沢のもとにはたくさん人が
集まってくるんですよ。
例えば実業家・安田善次郎は、
最後暗殺されてしまうのですが、
彼は「小鳥ども笑わば笑えわれはまた
世の憂きことは聞かぬみみずく」という
歌を詠んで世間から超然としていました。
しかし渋沢はその反対で、
思いなり信念なりを周りの人々に語り、
自分を理解してもらおうとしているし、
ユーモアも大好きで周りの人を楽しませよう
とする。
これが暗殺された安田との違いであって、
渋沢が人々に慕われ、たくさんの協力者を
得ることができた理由だと思います。
いわば渋沢は、周囲を巻き込んでいく人、
渦の中心になる人だった。
そういうところから、大久保利通などは、
渋沢を自分の地位を脅かす存在として危険視
するようになったのではないかと思います。
渋沢はどんな人材も使いこなし、
いろんな人を巻き込み、
物事をどんどん実現していくわけですから。
(井上)
本当にそうで、渋沢史料館に一点、
大久保から渋沢への手紙があるんですが、
それには……
★この後もお二人には、渋沢がなぜ歴史に
名を残すことができたのか、また私たちが
学ぶべき教えについて語り合っていただいて
います。
続きは最新号で!人生・仕事のヒントが
満載です。対談詳細はこちら
致知出版社の人間力メルマガ
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!