満洲を武力で制圧することに対して批判的だった = 2-1 = 第1,411号

 かつて東洋一の繁栄を誇り、モダンの代名詞と

なった都市、上海。日本軍の大陸進出に

よって戦場となった上海。外灘

に摩天楼が聳えたつ国際

金融都市、茶館に

娼婦やアヘン中毒者が

たむろする退廃都市、租界

を擁するコスモポリタン都市…。

 高杉晋作、李香蘭、ゾルゲ、里見甫…。魔都と

呼ばれた街に生きた人間達の10のドラマ。

“オールド上海”の魅力が写真ととも

に蘇る。上海に暮らした、幅舘

卓哉氏、荘魯迅氏の談話も収録。

 日露戦争開戦から1年後の1905年2月、ロシア

のバルチック艦隊の最後発組が本拠地のバル

ト海を出たという情報を日本の大本営

はリアルタイムに掴んでいた。

 バルチック艦隊の航路が見える海岸線沿いの

都市では、当時は数少なかった日本人ら

が情報を領事館に送って来ていた。

 英領のシンガポールを廻っていた辺りまでは

明瞭だった。しかし仏領、今のベトナム沖

に入ると大本営に入る情報がめっきり

と減った。ロシアと親しかった

フランス政府が情報を隠したのだ。

 当時、海外に支店網を持つ数少ない商社、三井

物産は日本海軍にとって重要な情報源の一つ

だった。その上海支店に敵艦捜せの要請

があったのは、この時である。

 電報を打ったのは第二艦隊の瓜生外吉司令官

だった。支店長だった山本条太郎は部下の

森恪に船を雇ってバルチック艦隊を

探すように命じた。

 連合艦隊への明確な情報は三井物産上海支店から

の情報しかなかった。司令長官の東郷平八郎

はこの情報を頼りに「ここ(対馬海峡)

で待とう」と決断した。

 山本は対外情報の集積地である上海で、ロシア軍

の動向を探る役目を日本政府から受け

数年前から動いていた。

 まず三井物産が仕掛けたのは上海の穀物市場で

買占めや価格の意図的なつり上げを行い、

ロシアの食糧調達を妨害するというものだった。

 上海には英国流の社交クラブがあり、そこの

メンバーにならないと情報は入らなかった。

 山本は伝統ある「上海クラブ」に加入した最初の

日本の企業人だった。そこで有力な英字紙の

経営者と付き合い、日本びいきを作ったのである。

 佐野眞一『上海時間旅行』

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 今回も最後までお読みくださり、

       ありがとうございました。感謝!

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