物を大切にする心を無くさない典型的な「日本の母」だった = 2-1 = 第 2,594 号

2022/10/10 (月) 7:31

将棋連盟の会長として日本の将棋界を長年に
わたりけん引し続けた故・米長邦雄
永世棋聖(四男)。


ユーモア溢れる人柄の一方、「米長理論」と
呼ばれる独特の勝負哲学を持ち、将棋界では
異例となる50歳での名人位を獲得されました。

今回はそんな米長永世棋聖を育てたお母様に
ついて、米長先生の兄・修さん(次男)に
語っていただきました。


─────────────────

(米長修)

……私が幼いころは、広大な田畑や
いくつもの蔵を持ち、兄弟それぞれに
子守がついていたが、そんな裕福な生活も
戦争に負けて一変してしまった。
満鉄の株はただの紙切れとなり、農地改革で
持っていた田畑はほとんどなくなってしまった。

さらに父が肺結核で寝たきりになり、一家の
運命は母の細腕に託されることとなった。

それから母は、猫の額ほど残った畑を耕し、
残ったたばこ屋を細々と営んで
どうにか飢えをしのいでいたが、
いよいよ生活は苦しくなっていった。母は
自分の嫁入り道具や着物を売り食いし始めた。
箪笥が裏戸から運ばれていくのを
母はいつまでも見送っていた。

当時は日本中が貧困のどん底で、生活を苦に
一家心中をする家族が後を絶たなかった。
母もまた、食べ盛りの子ども5人と
いつ死ぬかわからない夫を抱え、
一家心中を考えたこともあったらしい。
青酸カリを飲もうか、列車に飛び込もうか、
川に入水しようか……。

私も子どもながらにその緊張感が伝わってきて、
ある日の夕食にぼた餅が出てきたときは
兄と顔を見合わせた。
以心伝心で
「これには毒が盛られているのではないか、
怪しい」と感じ、四男が食べて
何も起こらないのを見るまでは、
2人ともなかなか手をつけられずにいた。

一家の家計を支えるため、兄は中学を卒業
したら奉公に出されることになっていた。
しかし兄は成績が良く、
母は担任の先生から
「歯を食いしばっても高校へ行かせるべきだ」
と言われた。夜中まで延々と続いた
米長家親族会議の結果、長男だけは
高校まで行かせることになった。

※本記事は『致知』2002年5月号
特集「このままではいけない」から一部抜粋・
編集したものです

  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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