日本の臨床心理学の礎を築いた
河合隼雄氏。
その愛弟子として40年以上にわたり
薫陶を受けてきた皆藤章氏が
まる5年の歳月を費やして書き上げた
渾身の著書。
タイトルは、
『それでも生きてゆく意味を求めて』
幾多の人々の相談に応じてきた臨床経験を
もとに綴った衝撃と感動のドキュメントです。
書籍編集部員のひとりが、
本書の刊行に込める思いを綴った文章を
お届けいたします。
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「いまから母を殺しに行きます」
やや上気した表情でわたしにそう告げて、
バッグからナイフを取り出し、この女性は立ち上がった。
向かいに座るわたしを見下ろし、「いいですね」、と。
何もいえなかった。これまでなんどもなんども、
くり返し、母親への憎しみを語ってやまなかった
この女性のこころの内を慮ると、応えることばがなかった。
「やめなさい」などとはよもやいえなかった。
そういおうものなら、
「先生はわたしの苦しみをわかっていない!」と、
なじってくるだろう。その姿が目に浮かんだ。
いや、正直にいえば、
殺したいと思っても不思議はないだろう、
そう感じる自分さえいた。
しかしもちろん、それを認めるわけにはいかない。
いったい、どうすれば良かったのだろう。
* *
ある日、上司から突然手渡された原稿は、
こんな書き出しで始まった。
著者は、心理臨床学の泰斗・河合隼雄氏から、
40年以上にわたる薫陶を受けてきた
臨床心理士の皆藤章氏。
相談の主である女性は、すでに成人を過ぎており、
まだ幼い頃、工事用の土砂が山と積まれた
家の近くで遊んでいたとき、事故に遭って、
生涯消えない傷を身体に負うことになったのだという。
近所の人と世間話に興じていた母親の目が
離れた隙に起きた事故だった。
決して消すことのできない過去と
母親への憎しみを背負って、
20年近い人生を生きてきた女性が発した冒頭の言葉に、
臨床の専門家は一体どんな答えを返すのだろう。
息を呑む思いで読み進めていったが、
結果は予想だにしないものだった。
* *
ナイフを手にしたこの女性に見下ろされながら、
これまでの道往きが走馬灯のように
浮かんでは消えていった。
いつしか、わたしの目から涙が溢れてきた。
その姿を見せまいと堪えるのだが、呻き声とともに、
涙は零れていった。
そんな姿を、この女性はどんな思いで見ていたのだろう。
きっとわずかな時間だったにちがいないのだが、
途方もなく長く、苦しく感じる時間だった。
そのうち、ナイフをバッグにしまって
椅子に腰掛けたこの女性は、静かにいった。
「もう二度としません」
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河合隼雄氏の愛弟子が綴る
衝撃と感動のドキュメント
『それでも生きてゆく意味を求めて』
皆藤章・著
定価=2,200円(税込)