和歌山市で老人福祉施設を運営する土山
憲一郎さんには、決して忘れることの
できない辛い思い出があります。
高校生の我が子を、医療ミスで
亡くしてしまったのです。
土山さんが福祉事業に取り組むきっかけ
となったこの出来事を述懐する随想
の一部をご紹介します。
───────────────────
土山 憲一郎(社会福祉法人
わかうら会理事長)
───────────────────
「憲美君が危篤やで!」次男が通う
中学校のPTA役員会が開かれて
いた会議室に、友人がそう叫び
ながら飛び込んできた時、
私は一瞬、言葉を失いました。
長男の憲美が高校の映画鑑賞会の帰り道
で交通事故に遭い、救急車で病院に運
ばれたのはこの日の昼過ぎでした。
出張先からタクシーで駆けつけた私に
憲美は「手術をしてほしい。頭が
痛い」と繰り返し訴えました。
聞くと何度か血を吐いたと言います。
ところが、看護師は吐瀉物は血では
なく事故前に口にしたイチゴであり、
心配要らないと話すのです。
「手術をしてほしい」という憲美の訴え
に耳を貸さないばかりか、医師は「甘
やかすから我慢のできない子に育っ
たんですよ」と私に説教する始末でした。
私は一抹の不安を抱きながらも、「心配
ない」という言葉を信じ、中学校の夜
のPTA会合に参加することにしました。
危篤との報せを聞かされたのは、
その時でした。
病院のベッドに寝かされた憲美は息も
絶え絶えで、この日の深夜、十六歳
で息を引き取りました。
死因は脳挫傷でした。
「すみません。誤診でした」と頭を下げ
る医師の姿に私は激しい怒りとやり場
のない無念さ、息子を死なせてし
まった後悔の念が込み上げてきました。
それまでの曇り空が土砂降りの雨に
変わったこの夜の情景は、忘れら
れるものではありません。
昭和五十四年七月十三日のことです。
一周忌の時、小学四年生だった三男が、
「兄さんのためにお経をあげたい」と
言い出し、浄土真宗の『正信偈』を
ひと言の間違いもなく最後まで
諳んじました。
私たち夫婦が朝夕、憲美の遺影の前で
読経していたものをいつの間にか
覚えていたのです。
いたいけな三男の姿に涙が込み上げ、
病院への怒りが静まっていく
感覚を抱いたものです。
───────────────────
◆人生を豊かに潤す月刊誌『致知』◆
人間学誌『致知』のお申し込みはこちら
───────────────────
憲美は医者を夢見ていました。
親としてその夢を叶えてあげることは
できませんでしたが、ある時、老人
ホームを建て、いい医師とスタッ
フを揃えることなら自分でも
できるはずだと考えました。
母が地区の民生委員だったこともあり、
私も福祉についておおよそのことは
分かっていたのです。
当時、タクシー会社を経営していた私は
建設費の目処をつけた上で昭和五十五年
に和歌山県に申請しました。
三、四年もすれば認可が下りる、そう
すれば憲美が喜ぶような、どこにも
ない日本一の施設をつくろうと
構想を温めていました。
幸い、美しい和歌浦湾を一望できる国立
公園内の先祖伝来の一万坪の土地があり、
立地条件面も申し分ありませんでした。
ところが、何年待っても認可
が下りないのです。
その頃、老人ホームといえば医療機関
による運営が主で、企業経営者の申請
が珍しかったことに加えて、憲美を
亡くして以来、救急医療の問題点
を訴え続けていた私は、行政に
とって煙たい存在だったこと
も一因となっていたのかもしれません。
一日千秋の思いで待ち続け、認可をい
ただいたのは、申請から実に十五年を
経た平成七年八月のことでした。
『致知』 2018年1月号
連載「致知随想」P85
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝