目に力がある熱っぽい真剣勝負の目でした 第 2,771 号

現代フランスを代表する洋画家として
活躍された松井守男画伯。

松井画伯は20代で渡仏し、現在まで50年以上
パリやコルシカ島を拠点に制作活動に打ち込み、
フランス政府から芸術文化勲章、レジオン・
ドヌール勲章を授与されるなど、国際的に
高く評価されました。

そんな画伯の原点には、天才・ピカソとの邂逅
がありました。そこで交わされた言葉とは?

……………………………………

「ピカソからの忠言」

 松井守男(画家)

『致知』2004年7月号
……………………………………

出る杭は打たれるという格言は
パリでも通用するんです。

美術学校で頭角を現してくると、
嫉妬や憎悪がすごい。

しかもギロチンの国だから、
並みじゃない凄まじさです。

私は姦計にはまって、
美術学校にいられなくなってしまったんです。

美術学校のフランス人の同級生が、教授の
サンジェ先生はおまえを気に入っているから、
おまえの言うことは聞くだろう、質問したい
ことがあるので手紙を書いてくれという。

私は手紙を書くほどにフランス語は
まだ熟達していなかったが、
文章は自分が書くから
サインだけしてくれればいいという。

私も幼稚だったんですね。

チラリとも疑わずサインしてしまった。

数日して、サンジェ先生から
烈火の如き怒りの手紙が来ましてね。

明日から学校に来るなというわけです。

後で分かったのだが、
同級生が書いた手紙にはサンジェ先生
への批判が書いてあったんですね。

私は美術学校から放り出されたわけです。


後で事情が分かって、サンジェ先生に
ピニョンという友人がいるんだが、
このピニョンが、いまとなっては
学校に戻すわけにはいかないが、
お詫びに何かプレゼントしたいという。

プレゼントならピカソに会わせてくれと
私は言いました。

というのは、ピカソが生涯で最も愛した
女性はピニョンの奥さんで、
だから、ピニョンはピカソに
影響力があるのを知っていたんです。

でも、まさか会えるとは思っていませんでした。

私がパリに行った動機の最大のものは、
そこにピカソがいたからです。

画家というのは、例えばシャガールのように
自分の画風を確立すると、
それだけでいくのがほとんどです。

だが、ピカソは違う。

具象から始まって、青の時代があり、
キュービズムの時期がありというふうに、
画風を変えて求めるものを追求していく。

その自由奔放さに憧れていたから、
念願がかなって胸が震えました。

日本じゃ考えられないでしょうね。

無名の若者なんか洟も引っかけない。

そのほうが逆に権威がつくというのが
日本の画壇ですから。

号何万円という上にあぐらをかき、
一つひとつの作品に自分を懸けて
真剣勝負をしていない。
それが日本の巨匠の姿です。

だから日本の絵は国内でしか通用しないし、
世界の舞台では五流六流扱いしかされ
ないんです。

私が会ったのは亡くなる数年前で、
もう九十を越えていましたが、
目に力があるというのか光があるというのか、
いや、そんな言い方は平凡すぎますね。

こいつはいつか自分を追い越すかもしれないと
いう、熱っぽい真剣勝負の目でした。

そして私に言ったんです。


「おまえは私のような画家になれる。

だが、ピカソになると思うな。

ほかの誰にもなると思うな。

松井守男になれ」


と。こんな言葉をもらって、
エネルギーが湧かないはずがありません。

美術学校を追い出されたことが、
私にエネルギーをもたらすことになった。

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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