「魏志倭人伝」によると、卑弥呼の特使である
難升米(なしめ)が洛陽まで約2000kmの航海を
行ったという。
耶馬台国が畿内の内陸にあった場合、彼らは
本当に対馬海峡を渡ることができただろうか。
またこの時代、瀬戸内海は航路が未開発であった
ため通ることができず、交易は主に日本海側で
行われたと考えられる。
当時の航海技術や地形に基づき、海人(かいじん)の
身になって丹後半島の遺跡に身に置けば、鉄と翡翠
で繁栄する「王国」の姿が見えてくる……。
「海を渡る術」に着目して古代史を点検すれば、
今まで隠されれてきた日本人の歴史を発見
することができる。
日本史は専門ではないが、今回古代の海を渡るに
あたって、記紀や『魏志倭人伝』はもちろんの
こと、古代史に関する著名な書はあらかた
読み込んだ。
日本民族は、農耕民族でもなければ
騎馬民族でもない。
「海洋民族」であったという考えを共有して
いただければ、これ以上の喜びはない。
最近の神話の研究と考古学調査によって、
古代の出雲が強国であったことが
証明されつつある。
その力の源は、交易である。
東西100キロの島根半島が天然の水路を形成
して、鉄の道、翡翠の道の中継地となり、
勾玉がこの道に乗って東西に運ばれていった。
魏志倭人伝の時代、国家内に工場群を持ち、
交易を生業としている都市国家とした
最大の国は、九州倭国ではなく
「丹後王国」である。
九州倭国は、いうなれば「海峡横断請負人
集団」でロジスティクス(兵站輸送)の
スキルを生業として、鉄の安定供給
は「丹後王国」の願いであった。
日本海交易ネットワークは、九州倭国と新羅
の帰化人と蘇我氏が運営する「蘇我海運」
が押さえていた。
卑弥呼の王国の所在地を議論する前に、まず、
「なぜ、都市国家連合に君臨でき、どのよう
に卑弥呼は財力を得たか」を考えたい。
その答えは、言うまでもなく
鉄の交易の支援である。
卑弥呼は、鉄をめぐる対岸交易で「海を渡る」
という、ノウハウを提供したサービス業の
女社長だということができる。
今でいう旅行代理店、船貸し業、乗組員手配
業、さらに祈祷を含めた天気予報業務である。
倭国旅行代理店の女社長であった卑弥呼は、
参加した各国の総代と相談しながらロジス
ティクスを仕切ったと考えられる。
元寇のとき、元軍総司令官・氾文虎は、到着
直後の博多で防塁を前にして、「なんとか
して一点突破して、その砂浜に橋頭堡を
確保しなければ船団が助からない」
ということを知らなかった。
数千隻の艦隊の上陸作戦を、まったく考えて
いなかったのである。
元寇の勝因は、決して神風などではない。
日本の武家集団が少しだけ賢く、元軍が兵站
輸送や船舶避泊を考えていなかったこと
が日本の勝因といえる。
長野正孝
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今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。感謝!