主力商品である「スマイルデンチャー」をはじ
め様々な口腔関連製品の製造、販売に取り組ん
でいる東京の三和デンタル。
いまでこそ海外にも拠点を構える同社ですが、
かつては、いつ倒産してもおかしくない
綱渡りの経営が続いていたといいます。
その窮地を乗り越えさせたのは、社長の
菅沼佳一郎氏が幼い頃に見ていた母親の
生き方でした。
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(──経営の道に進んだいきさつを
お話しください。)
(菅沼)
私は1950年、7人きょうだいの4男として
北海道稚内に生まれましてね。明治生まれの
両親は共に読み書きができませんでした。
父は呑んだくれの日雇い労働者で、
酒を呑んでは大声を張り上げ、
家に帰ってくる日々でした。
母は6歳の時に極寒の樺太に奉公に出され
ました。
自分と同じくらいの年齢の子を背負い、
身を刺すような冷たい水で洗濯をさせられる。
子供の重さで後ろにひっくり返ると、
子供は火のついたように泣き出す。
その度に母は奉公先の主人から怒られ、
殴られたそうです。
実際、母の脛にはストーブの火かき棒で殴られ
た生々しい傷跡がいくつも残っていました。
父と結婚しても生活は楽にならず、毎日朝早く
から寒風吹き荒ぶ加工所で魚を捌く過酷な労働に
従事し、家に戻ってきても座ることなく様々な
仕事をしていました。
ただ、貧しい中でも食べるものは子供優先でね。
自分のことはすべて後回しの優しい母でした。
(──お母様は苦労を一身に背負って
家庭を守っていたのですね。)
(菅沼)
母には感謝しかありません。私の人間形成に
大きな影響を与えたのは主に4つあるんです。
1つ目は、私は物心つく頃からものすごく
やんちゃで、小学校1年生の時に他のクラスの
箒をぶんどってきて、皆が掃除できないのを
見て楽しんでいたんですよ。
そうしたら春休みに担任の先生が自宅に突然やっ
てきて、てっきり悪さのことで怒られるのかと
思ったら、給食代の滞納の件だったんです。
私はその様子を障子の陰に隠れ見ていたのですが、
母はお金がないので、先生にただただ頭を下げ、
代わりに魚を持たせて帰ってもらっていました。
日頃から母が朝から晩まで働いている姿を知って
いましたから、「親に二度とお金のことで迷惑
かけるわけにはいかない」と心に誓い、
以後、おとなしい真面目な子になったんです。
★菅沼氏の人生は、その後も試練の連続でした。
お話の続きは本誌でお読みください。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!