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50年間続いた母子の確執
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子どもの頃の私の楽しみは何よりも読書でした。
図書室や家庭の書棚にあるいろいろな本を
引っ張り出しては、本の世界に浸りました。
しかし、母の『流れる星は生きている』だけは、
どうしても手に取る勇気がありませんでした。
幼い頃、一体何があったのか。
その疑問が解かれるのが怖かったからです。
しかし、中学受験が間近に迫った12歳の頃、
そのストレスから逃げるように
『流れる星は生きている』を読んでいる自分に
気付きました。
そしてその本の中で
私のことを描写している数行を発見したのです。
「咲子が生きていることが、
必ずしも幸福とは限らない」
「咲子はまだ生きていた」
ああ、お母さんはやっぱり私を
愛していなかった……。
1人の赤ん坊を犠牲にし、
2人の兄を生かそうとしていたのです。
これを読んだ時はしばらく声を失い、
呻き声をあげていました。
たった数行が母の私への不信を生み出し、
それから50年もの間、母への反抗が続きました。
私は火がついたように母に食ってかかり、
母を責めるようになりました。
母が涙を流し、
「あんたなんか連れてこなきゃよかった」
と言うまで諍いは終わりませんでした。
平成15年、私は整理をしていた書庫から
偶然にも『流れる……』の初版本を見つけました。
約50年ぶりに茶色の木皮の紋様のカバーを開くと、
そこには「咲子へ」という見慣れた母の字体がありました。
「お前はほんとうに赤ちゃんでした。
早く大きくなってこの本を読んで頂戴、
ほんとうによく大きくなってくれました。母」
現在と変わらぬ美しい字体で書かれたこの1行は、
強く閉ざした私の心をひと突きにし、
私の中の何かが崩れ落ちるのを感じました。
12歳の時に目に留まった
「まだ咲子は生きていた」の1文は母の落胆ではなく、
劣悪な状況下で健気に生きていた私への
感動だったのだとこの時ようやく気付いたのです。
母に対する気持ちが
和らぎ始めたのはそれからです。
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湧き上がる母への愛
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そんな母もいま米寿を迎え、
数年前から認知症に侵されています。
病状が進むにつれて母は穏やかになり、
反発していた私にも優しく接するようになりました。
病が進み始めた頃、伊豆の別荘に
母と何度も行きました。
駿河湾と富士山が見渡せる場所に車を停め、
漁船の走る海を母と眺めました。
私は1歩後ろへ下がり、
母の病状を観察するかのように
「ほら、イカ釣り漁船が行くねえ」
と話しかけました。
すると母は、
「バカだねえ、お前は。
あれは引き揚げ船だよ」
と力強い眼差しで海を見ているのです。
この時の母の横顔に思わず私は息をのみこんで、
涙を抑えることができませんでした。
たった1人で幼子3人と日本に引き揚げた時の
母の孤独感、
人に言えない苦労が刻まれた横顔に
強い寂寥感を感じたのです。
その寂寥感は私の中のそれと重なり合い、
気がつくと私は母をこの上なく
いとおしく思うようになっていました。
人が人を許し、人に優しくすることを知った時、
初めて人は心の静まりの中に真実が見えてくる――。
母はそれを身をもって私に伝えてくれた気がします。
認知症は私にじっくり母と向き合う
きっかけを与えてくれました。
私を一人前にするために
厳しく育ててくれた母に、
いま心から感謝しています。
藤原咲子(ふじわら・さきこ)
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1945年、父・新田次郎(本名・藤原寛人)と、
母・藤原ていの長女として、
満州国新京市(中国長春市)に生まれる。
立教大学文学部を卒業後、東京教育大学で
比較文学を、北京師範大学で中国語を学び、
高校で中国語を教える。
数学者・エッセイストの藤原正彦は次兄。
『致知』2007年2月号
連載「致知随想」
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!