元特攻要員で、94歳の現在も自身の戦争体験
や平和の尊さを語り継ぐ山﨑健作さん。
その人生の礎は、幼き日に学んだ
新渡戸稲造設立の遠友夜学校での
教育にあったといいます。
遠友夜学校の顕彰活動に力を入れる
山﨑さんのインタビューの一部をご紹介します。
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(──山﨑さんは94歳のいまも
戦争体験や平和の大切さについて
語り継がれているそうですね。)
(山﨑)
さすがに最近は耳も遠くなりましたので、
皆様の前でお話しする機会は減りましたが、
近く自叙伝を出す予定でいます。
戦争とはどういうものだったのか、
そういう中で私はなぜ特攻要員となり、
戦後の激動期をどのように生きてきたのかを
詳細にお伝えさせていただきたいと思います。
もう一つ、私がいま力を入れているのが、
札幌農学校(現・北海道大学)の教授だった
新渡戸稲造博士夫妻が、明治27(1894)年に
私費を投じて設立した遠友夜学校の志を伝える
活動です。昭和19(1944)年の閉校まで、
約3800人がここで学びました。
夜学校は札幌市中央区南四条東3丁目にある
私のこの自宅から僅か100メートルほどの場所に
あり、私も12歳の頃、半年間だけでしたが
通ったことがあるんです。
(──どのような教育が行われていたのですか。)
(山﨑)
私が育った昭和初期は家庭の事情で進学や登校
がままならない人たちがたくさんおりました。
遠友夜学校はそういう老若男女のためにつくら
れた無償・無試験の学校です。
私の家も貧しかったものだから、
母親が夜学校で学ぶことを勧めてくれました。
当時としては大変開かれた学校で、
北海道大学の学生が教官を務め、
私のクラスの級長は25歳。それだけに
先生と生徒の垣根は低く、私も幅広い年代の
同級生たちと机を並べながら学びました。
一緒に登山や海水浴を楽しんだり、
大変温かい雰囲気でしたね。
「世のため人のためになる人間を育成する」
という教育方針も新渡戸先生のキリスト教
精神に基づくものです。
虚弱で友達のいなかった私にとっての学校生活は
大変充実しており、私はこの夜学校での経験が
自分の人生を決めたと思っています。
(──ご自身の人生の基礎を、
遠友夜学校で培われたのですね。)
(山﨑)
はい。それで私は87歳の時、
遠友再興塾という市民団体を発足させ、
地元の経営者の方たちと共に札幌市にお願いして
跡地に記念館を建てる働きかけを始めました。
乗り越えなければならない壁が厚くてまだまだ
先は遠いのですが、私の生きているうちに道筋
はつけておきたいと思います。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!