いまも岐阜県高山市荘川町(旧荘川村)
中野の国道156号沿いにある
御母衣ダム湖岸に佇む「荘川桜」。
その2本の桜の樹齢は、
既に500年を超えているといいます。
しかしこの老樹も、かつてはダム建設のため、
湖底に水没する運命にありました。
そこに立ち上がったのが、
工事を推進する電源開発株式会社の
初代総裁・高碕達之助。
高碕はその巨樹を前に、
「なんとかしてこの桜を救いたい」
という思いに駆り立てられたのです。
困難を極めた移植作業は、
果たしてどのようにして行われたのでしょうか。
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敗戦直後、満身創痍の祖国を再建すべく
懸命の努力が続いていました。
ようやく目処が立った昭和27年、政府は
広範囲に及ぶ電力供給を可能とすることが、
さらなる復興のはずみになると考え、
電源開発株式会社を創設して水力発電の
ためのダム設計にとりかかったのです。
これが佐久間ダムと御母衣(みぼろ)ダムの
建設でした。
電源開発の初代総裁には高碕達之助が就任しま
した。高碕は東洋製罐株式会社の創設者であり、
戦前は請われて満州重工業開発株式会社総裁と
して手腕を振るった実業界の傑物です。
御母衣ダム建設の一件が政府によって公表
されたのが同年10月18日、この寝耳に水の
報道を知ったダム建設予定地区に決まった岐阜県
大野郡荘川(しようかわ)村は騒然となりました。
ダムの底に水没することになるわけですから
当然です。
翌28年1月には地元民によって「御母衣ダム
絶対反対期成同盟死守会」が結成され、
以後7年間にわたって
激しい闘争が繰り広げられることになります。
しかし、地元民は大局的立場から
ダム建設を受け入れることになり、
昭和34年11月に死守会は解散を迎えます。
ところが地元民は、
その辛い式典の席に憎んでも
憎みきれないはずの高碕を招待したのです。
なにゆえ死守会は高碕を招いたのでしょうか。
じつは高碕は、地元民との交渉に際して
みずから膝を交え対話に努めた稀有な総裁でした。
書面でのやりとりも肉筆で書き送ったといいます。
故郷が水没する地元民の嘆きを
痛いほど感じていたからにほかなりません。
さて、解散式ののち、高碕は
死守会幹部の案内で水没予定の
荘川村を見て回ることにしました。光輪寺と
いう寺の境内に立ち寄った時のことです。
老いた巨大なアズマヒガンの桜の木を
目の当たりにして息を呑みました。
その時の心境を、
昭和37年8月号の『文藝春秋』に綴った
「湖底の桜」のなかでこう明かしています。
「私の脳裡には、
この巨樹が水を満々とたたえた青い湖底に、
さみしく揺らいでいる姿が、はっきりと見えた。
この桜を救いたいという気持が、
胸の奥のほうから湧き上ってくるのを、
私は抑えきれなかった。…進歩の名の
もとに古き姿は次第に失われていく。
だが人力で救えるかぎりのものは
なんとかして残しておきたい。
古きものは古きが故に尊い」
帰京した高碕は、早々に著名な植物学者
らに相談を持ち込んだものの、
樹齢450年は経つと思われる老桜の移植など
世界にも例がなく、断られてしまいます。
万策尽きたこの時、高碕の脳裡に浮かんだのが
神戸に住む「桜の博士」の異名を持つ在野の人、
笹部新太郎の存在でした。
ただちに高碕はこの笹部を訪問、
移植の仕事を懇願します。
当時73歳の笹部は……
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ありがとうございました。感謝!