耳で聞いたことを正確に言葉にする訓練 第 2,845 号

 今という時代を映す鏡でありたい──.従来

のニュース番組とは一線を画し,日本のジャ

ーナリズムに新しい風を吹き込んだ〈ク

ローズアップ現代〉.番組スタッフた

ちの熱き思いとともに,真摯に,そ

して果敢に,自分の言葉で世に問

いかけ続けてきたキャスターが,

23年にわたる挑戦の日々を語る。

 英語放送からのスタート。NHKとの出会いは、

父にかかってきた一本の電話がきっかけだった。

「お宅には英語が堪能なお嬢さんがいらっしゃい

ましたよね?」電話の主は、香港に住んでいた

ころ、近所にいたNHKの元特派員の方から。

 1981年、夜のニュースを二か国語放送すること

に向けて、英語でニュースを読むアナウンサー

を探していた。

 私はすぐに誘いのあった英語ニュースの試験を

受けて合格、英語放送のアナウンサーとして

雇われることになった。

 帰国子女で小学校の数年を除いて、海外の大学

やインターナショナルスクールで教育を受けて

きた私は、日本のことをきちんと理解できて

いないことがコンプレックスになっていた。

 英語放送の仕事は、週2、3回、午後3時半

から8時までの4時間半。担当の日は、朝か

ら日本語の新聞と英語の新聞を丹念に読み、

その日の放送に出てきそうなニュースを

理解できるようにし、英語での言い回

しを勉強した。

 同時通訳の学校にも通った。

 耳で聞いたことを正確に言葉にする訓練、

リピーティングの授業があった。その訓

練を繰り返していくうちに、私は苦手

だと感じていた日本語が、口の中で

定着していくように感じ始めた。

 読んだり書いたりしていても、自分で使うと

なると敷居の高い表現がある。しかし、自分

で聞きながら、その言葉を実際に使うこと

で、遠かったボキャブラリーが自分の中

で使えるものに変わっていく。これは

不思議な体験だった。

 ニューヨーク発のワールドニュースを担当して

いるとき、1988年、日本での総合テレビの仕

事をオファーされた。このとき、コロンビ

ア大学の大学院にいくのか、日本に帰国

してテレビの仕事を選ぶのか。迷った

私は大学へ相談に行った。入学担当

の学部長は、「学校は待てます。

しかし、仕事がめぐってくる

チャンスは、そう多くあり

ませんよ」とアドバイスしてくれた。

 「School can wait」私の迷いを吹き

飛ばしてくれる言葉だった。

 挫折。東京の放送センターにキャスターと

して初めて足を踏み入れた瞬間、私はその

雰囲気に圧倒された。

 私の緊張している様子は、毎日の放送を通して

すぐに視聴者に伝わり、こわばった表情だけで

なく言葉につまったり、日本語の「てにをは」

がおかしかった。

 自信なさげなキャスターに対して、視聴者

から多くのお叱りが届いた。抜擢されたも

のの、期待に応えられない不甲斐なさ

から私は肩身が狭かった。

 自分自身にも失望し、NHKからの帰り道、

涙があふれることも少なくなかった。

国谷 裕子 (著)『キャスターという仕事』

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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