今回は伊藤博文について令孫・伊藤満洲雄さん
が語った『致知』の記事を紹介します。
該博な知識と豊富な経験にもとづく見識を携え、
明治18年内閣制度を創設し
初代内閣総理大臣となった伊藤博文。
どのような人物だったのでしょうか。
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(伊藤)
伊藤博文という人は、非常に融和性の強い性質
で、相手の意見をとにかくよく聞いて尊重し、
頭ごなしに「そんなことはダメだ」と否定する
ようなことはほとんどなかったといいます。
ただし、ここぞという局面においては、断固と
して自分の考えを押し通す信念も兼ね備えて
いました。
その一例が、初代文部大臣に森有礼を任命した
ことです。薩摩出身であるが、序列からすれば
論外で、しかも非常に若い彼を登用することに
ついては、他藩との兼ね合いなどから、
反対意見も少なからずありました。
しかし、若くしてイギリスとアメリカへの留学
経験を持ち、他国の事情に精通している有礼を、
博文は非常に高く評価して文部大臣に据え、
近代的な教育制度を確立させるようにしたの
でした。
「薩長政治」と揶揄されることもあった明治期
に、藩閥に捉われず、紀州藩出身の陸奥宗光を
外務大臣として重用したことも、
博文の大きな功績の一つです。
博文はそうしたことによって、自分の勉強の
範囲の及ばない点を他の人に学ばせ、そこから
知識を吸収していこうとしたのでした。
廃藩置県が行われた後、各都道府県に知事を
派遣する際においても、この地であれば○○、
あの地であれば○○が適任だ、といった采配も、
博文が中心になって行いました。
そして多くの小学校をつくり、男女ともに
国民のレベルを上げていくことによって、
国の力を少しずつ高めていこうとしたのです。
これらのことから、博文には夫々の
人の能力を見抜く力に長けていた、
ということがいえると思います。
博文の持つ資質でもう一つ特筆すべきなのが、
行動する上において、常に「時機」というもの
を心得ていたということです。人を登用するに
せよ、新しい制度を発布するにせよ、
それがいかに正しい判断であったとしても、
タイミングが合わなければ、焦点が呆け、
事は失敗に終わってしまう。
その能力を「天性の素質」と言う人もいますが、
私は博文が、自分自身の経験と相手の話を真摯
に聞くことによって、その時その時に身に
つけていったのではないかと考えています。
元々が農民の出だった博文には、エリート意識
が一切なく、どんな人とでも同じ目線に立って、
話をすることができたといいます。
また、話をする人も、博文には忌憚のない意見
が言えるため、博文は人々の本音を、自然と
聞き出すことができたのでした。
博文は外国人が日本を訪問して来て会う機会が
あれば、いつも大喜びをしたといいます。
そして、限られた時間の中で何を話すか、
何を聞くかについてのプライオリティー
(優先順位)を常に考えていました。
いずれの場合も、相手から一方的に情報を
「もらう」というのではなく、
「交換する」という姿勢でいたために、
博文と会う人も、対話の時間を
非常に楽しく過ごしたといわれています。
(本記事は月刊『致知』2010年6月号
特集「知識・見識・胆識」より
一部を抜粋・編集したものです)
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