小泉純一郎は政界引退後に、原発ゼロを
強く訴え、東日本大震災の救援活動後
に原因不明の病に伏した元アメリ
カ兵のために「トモダチ作戦
被害者支援基金」を設立した。
政治の表舞台から身を引いたはずなのに、
なぜそんな活動をつづけるのか―。
「変人」と呼ばれた元総理が36年7か月
の政治遍歴を辿りつつ、とことん
自問自答した。
若き日の挫折、「雑巾がけ」の毎日、
師匠や盟友との出会いと別れ、角福
戦争の裏側、連戦連敗の教訓、
総理の座から見えた景色、
抵抗勢力との暗闘、
忘れられない外交場面、
そして家族、未来…「決断のとき」
に小泉が貫いてきたものとは。
喜寿を前にして世に問う、初の回想録。
私は総理時代は、「いつ殺されても
いい」と思って仕事をしていた。
首相官邸の執務室には細長い
ソファーが置いてあった。
私は組閣となればそこに横になって、
国会便覧を眺めながら布陣を考えた。
閣僚は十数人、その候補は50人以上。
自分の頭のなかで思い浮かんだ、これぞ
という人の名前を紙に書き出していく。
入閣要請の電話は、組閣の前日にした。
従来のように派閥を経由するやり方では
なく、私から直接その人に連絡する。
そのとき、なんの担当に
するかは言わない。
「入閣、いいか?」の一言。
「派閥に相談したい」と言ってくる人が
いれば、「いま、自分で決めてくれ。
自分で決められられない、(入らなく
て)いいよ」ときっぱり断った。
私が誰にも相談せずに人事ができた
のは、総理になるまでにいろんな
役職を経験してきたから。
総理になったとき、私は当選10回。
若いころに委員会の理事も委員長
もやって、国会対策や幹事
長室の役職もした。
全国組織委員長も派閥の
事務総長もやった。
YKKもやった。
大臣は3回、総裁選挙は3回やった。
長年の経験で自民党の全議員をよく
知っていて、各派閥の内情も
知り尽くしている。
野党とも付き合いがあった。
「信無くば立たず」人から信頼を獲得
するためには、まず決められた
約束の時間を守ること。
そして、自分の置かれた立場で、自分
はなにができるかを考えること。
言われたことだけやっていれば
いい、というのではない。
自分でいまなにをすればいいか考える。
そこからなにかを思い立って、仕事
をしたり、勉強したりする。
そういう姿を必ず誰かが見ている。
信頼を得れば、仕事も金もついてくる。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝