「男が人生を懸けて勝負するからには、
せめて1億円くらいは売り上げたい」。
サラリーマンを辞めて実家の農業を継ぎ、
32歳の時、農業で1億円を売り上げることを
目標に走り始めた山田敏之さん。
「ねぎ屋は儲かる」という噂だけを聞いて
始めたという農業を、
いかにして〝ブランド〟化させたのか。
その歩みに迫ります。
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〈山田〉
20年前代々続けてきた農家を継ぐために京都へ
帰りました。
大阪でサラリーマンをやっている時から
いつかは独立したいと考えていた私は、
「家業だから継ぐのではなく、
自分は農業で独立するんだ」
と固く決意。
男が人生を懸けて勝負するからには、
せめて1億円くらいは売り上げたい――
32歳とまだ若かった私は何の根拠もなかった
ものの、明確に「1億円」の売り上げ目標を
掲げました。
ところが父と二人、朝から晩まで働きに働き、
その年に手にした売り上げは400万円。
翌年は上向いたものの600万円……。
この2年間、父の指導の下、キャベツや水菜、
大根、小松菜など多くの種類の野菜を手掛け
ました。
しかし、このままでは絶対に1億円には届き
ません。私は数多くの品種をつくるのではなく、
一つの野菜に絞って、それを大量に
栽培すべきではないかという考えに至りました。
就農3年目の平成10年、父の反対を押し切り、
ブランドの「京野菜」の中でも
周年栽培できる九条ねぎに絞って栽培する
ことにしました。
そこから3年で1,600万円まで
売り上げを伸ばすことができましたが、
ここでもう一度壁にぶつかります。
1億円を売り上げるには、単純に考えれば、
あと6倍出荷しなければいけません。
しかし、それだけ増やせば市場価格は
崩れてしまいます。
そんな時に頭に浮かんだのが「ねぎ屋」の
存在でした。彼らは農家からねぎを畑ごと
買い上げ、加工して店に卸しています。
「ねぎ屋は儲かるらしい」と噂で聞いて
いました。
ならば農家がねぎ屋をやれば
最も効率的なのではないかと思いつき、
自宅の小屋を改造しカットねぎの生産を開始。
いまになってみれば「六次産業の走り」と
言われますが、当時はとにかく1億円を
売り上げるため、必死で考えた末に
行き着いた答えでした。
ねぎ屋としては完全に後発でしたから
地元京都では入り込む隙はありません。
そこで私は……
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!