文化功労者、桂米朝が語る落語家的人生。
落語の歴史、寄席の歴史、東京と上方の
ちがい、講談、漫談とのちがい、落語は
文学か、女の落語家は何故いないか
等々、当代一流の落語家にして
文化人が、落語に関するす
べてをやさしく、しかも
奥行き深い蘊蓄をかたむけて語る。
なまの落語を聞いていただきたい。
それも条件のいい高座で。
落語の寄席か、落語をきくための会場で。
条件のいいところで聞くのと、悪条件の
もとで聞くとでは、おなじ演者のおなじ
話が、80点と40点くらい差がある。
落語家はメーキャップも衣装もない。
素顔に高座着、扇子と手ぬぐい、
舞台の背景も小道具もない。
しゃべるだけの芸です。
したがって雰囲気という
ものが非常に大事。
すべての味わいは、十分な説明を
しないで相手に分からせた時の
ほうが、味が良いもの。
落語は、説明を少なくしてだん
だん聞き手に分からせてゆく
やり方をとっている。
名作、駄作も演者しだい。
ほんとうの価値なり味わいなりは、文
字で読んだのではわからないもの。
名作と言われる落語でも、へたな演者
の口にかかると、実につまらない
落語になってしまう。
拙作と呼ばれる作品でも、すぐれた演者
がしゃべったときに、目をみはらせる
すばらしい落語になる。
高座で演じられる落語と、活字で読む
落語とは全く違ったものである
ことを、言いたかった。
落語は一種の社会学。
むかし、田舎から若い子を丁稚小僧と
して店に採用したとき、すこし馴れ
てきた段階で、「いっぺん寄席
へ連れていてはなしを聞か
せてやれ」などと言った
主人がよくあったそうだ。
これは一つの耳学問、社会
勉強になったものだ。
明治時代、各地方から東京へ集まった
書生さんたちが、一番てっとりばやく、
東京の人情風俗社交などを覚える
のには、寄席が良いととされ
ていたそうだ。
人との応対や、折り目切れ目の挨拶の
しかた、さまざまな場合の人への対し
方、使う立場と使われる立場など
など、知らず知らずのうちに教えられる。
むかしは学校教育や家庭教育の不十分な
環境が少なくなかったが、それらの人々
も落語で社交のイロハを悟り、敬語
の使い方を知ったりした。
また世間知らずのぼんぼん育ちが貧し
い人の心情をわかったりもした。
ましてや家庭や学校では教わらない酒席
の作法や花柳界のしきたり、ご祝儀の
出し方一つでも落語によって教え
られたという人も少なくない。
落語は人生の百科事典であるといえる。
人間の心理の根本というものは時代
がかわってもそう変わらない。
客席とのほのぼのとした交流。
寄席の芸は、生の演者が、大勢のお客
様の前で、その反応を見ながらおし
ゃべりをし、芸を演じる。
それが映画や演劇とは違うところ。
新作落語ほど、はやく古くなる。
これもまた真理である。
そしてそれに耐えて残ってゆく作品、
幾多の演者の手にかかって少しずつ
改良されてかたまってきた作品、
それが古典の列に加えられてゆく。
古いはなし、おなじ落語を何度聞いて
もおもしろいということも言える。
長年くり返ししゃべっているうちに、
その演者の人生体験がしだいに裏
打ちされてきて、おなじ落語
に奥行きがでてくる。
お聞きになる方も、人生経験の積み重ね
とともに、今まで気づかなかった点が
あらためて再認識されたりする
ことにもなる。
いままで述べたような条件に耐えうる
だけの落語でないと、古典落語など
という名はつけられない。
もっともこれは落語家の方
にもあてはまるが。
桂米朝『落語と私』
の詳細,amazon購入はこちら↓
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝