第二次大戦終結後、東西冷戦構造下で
対ソ戦略の中核を担い、世界の情報
戦争をリードしたアメリカ。
なかでもスパイ=人的諜報のイメージで
広く知られたCIAは、その代表格だった。
だが冷戦の終焉とともにCIAは対テロ
戦略という方向転換を時代に迫られた
のだが、「9・11」の悲劇は起きた…。
「失われた十年」といわれる九〇年代、
なぜCIAは堕ちていったのか?組織と
リーダーの在り方の問題をも
衝く、気鋭の意欲作。
アメリカ大統領は日曜を除く毎朝、
「大統領報告日報」(プレジデン
シャル・デイリー・ブリーフ)
をCIAから受け取る。
ルーズリーフ型ノートで、10前後の
項目、20ページ程度。
「友好的な諜報機関は存在しない。ある
のは友好国の諜報機関だけだ」という
のが世界の常識である。
CIAの支局の規模は、アフリカなどの
小国の「ワンマン・オフィス」から、東
京やローマのような数10人とも100人
ともいわれる大きなものまで様々だ。
CIA東京支局では、軍人を中心に、
外交官、民間人に偽装して、冷戦時
には100人、現在は50~60人らしい。
東京支局長はアメリカ大使館の参事
官(大使、公使に次ぐポスト)
の1人とされる。
CIAのアナリスト(分析官)は作戦
本部や他の諜報機関が収集した情報
だけに依存しているのではない。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、書籍
などの公開情報に基づく諜報
が90%を占めている。
国防総省傘下の国防情報局(DIA)
の主な任務は、戦争遂行などに必要
な軍事関連の戦術情報の
収集と分析である。
そのために、各国の大使館にも
武官が駐在している。
DIAの人員は約7000人。
1997年、DIAのアナリスト
が一本の論文を書いた。
「来るべき諜報の失敗」と題して、「マ
ネジメントが情報収集や分析よりも
評価されている。
そして、優れたアナリストは
どんどん減っている。
諜報機関は現状維持思考の
人々ばかりになっている」とする内容は、
4年後の現実を予見しているかのようだ。
諜報機関の縄張り争いは、アメリカ
に限らずどの国でも激しい。
ソ連でもCIAの宿敵KGBと軍の
諜報機関であるGRU(参謀本部
情報管理本部)が犬猿の仲で
有名だった。
スパイ小説の大家フレデリック・フォー
サスによると、英国でも国内担当の防諜
機関のM15は、海外担当機関、通称
M16(正式にはSIS)を陰で
は「ツァー」(ロシアの皇帝、
独裁者)と呼んでいた。
両者がテムズ川を挟んでいるため
「川向こうのくそったれ」なのだ。
アルカイダのようなテロリスト・グルー
プには決定的な「深い情報」は期待で
きず、「幅広い情報」を収集する
しかないと指摘したのは、外務
省元国際情報課長の北岡元氏である。
ロシアもアルカイダとタリバンに関する
包括的な報告書を、2001年3月に
国連に提出していた。
そこには、アフガニスタンにあるアルカ
イダの55ヶ所の基地や事務所、ビンラ
ディンやタリバンと関係するパキス
タン政府高官31名についての
情報が含まれていた。
ロシア(ソ連)は1979年にアフガニス
タンを侵攻し、10年間占領していた
ため、タリバンやビンラディン
に関する情報を豊富に持つ。
アフガニスタンから撤退した後も、この
地域での諜報活動を続け、アフガニス
タン政府の協力者、現地語のできる
エージェント、複雑な情勢に
通じたアナリストを確保していた。
CIAに批判的なOBは同時テロ前
に今日を見通していた。
「CIAは今後も失敗を
続けるであろう。
有能で、賢明で、国際経験が豊富な、
大統領にもへつらわない長官が
登場するまでは」。
ホワイトハウスでテロ対策に従事して
きた『聖なるテロの時代』の著者たち
は、大統領といえどもリーダーシ
ップを発揮して、官僚機構を
動かすのは容易ではない
ことを認めている。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!