神戸に行けば何か新しいヒントがある
のではないかと考えた私は、毎月3回
ほど石川から神戸に足を運び、市立
図書館に籠もっては勝田船主に
関連する資料の収集に当たりました。
1日に取るコピーの数は約百枚。
なかなか核心は掴めないまでも、私の
心は勝田船主の人物像が少しずつ
明らかになっていく喜びに
満たされていました。
一方、肝心のカヤハラ船長については
全くといってよいほど情報が得ら
れませんでした。
手始めに「カヤハラ」を漢字変換しな
がら該当人物をインターネットで
検索してみましたが、全く
のお手上げ状態でした。
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北室さんは、オルガさんから依頼された
カヤハラ船長の名が茅原基治である
ことを突き止めるまでに2年
の歳月を要しました。
そして2011年10月、オルガさんは来日し、
岡山県笠岡市の子孫を訪ねて、夢にまで
見た茅原船長の墓参を果たすのです。
■危険な航海を成し遂げた船長の手腕
800名の子供たちを乗せた陽明丸です
が、3か月の大航海の中でも最大の
難所は最終目的地のフィンランド
に向かうバルト海でした。
バルト海は第一次世界大戦中、連合国軍
とドイツ海軍が激戦を繰り広げ、おびた
だしい数の機雷が敷設されていました。
この危険極まりない海を無事
抜けることができるのか。
すべては茅原船長の腕一つ
にかかっていました。
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バルト海航海に臨むに当たって茅原船長
はまず、機雷の実態に詳しい地元の熟
練のパイロット(水先案内人)を
探し出して協力を求めました。
茅原船長や水先案内人をはじめとする
船員たちは、24時間態勢で目を皿の
ように凝らし、全神経を水面に
集中させながら、ゆっくりと
船を進め、約一週間をかけ
て無事コイビスト港に投錨するのです。
この辺りのいきさつは茅原氏の手記には
詳しく記されていませんが、心身ともに
極限状態を強いられる持久戦だった
ことは想像に難くありません。
茅原氏はこのような卓越した能力の持ち
主でありながら、一方ではとても優しく
温かい人柄だったことが、彼の手記
からは窺い知ることができます。
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この茅原船長の言葉のように、戦争や
飢餓を経験し、死の恐怖に怯え続けた
子供たちにとって、陽明丸での
3か月間の大航海は文字ど
おり幸福な楽園だったようです。
赤十字の潤沢な資金によって船内には
食べ物や衣類がふんだんに積み込
まれていたのですから、それ
だけでも別世界でした。
彼らが帰国後にずっと隠し持っていた
数々の写真からは、船上生活の喜び
が伝わってくるようです。
「陽明丸」の救出作戦が展開されたのは、
日本人の心にまだ日露戦争の記憶が鮮
明に焼きついている頃でした。
ロシアに対する反感が根強かったことを
考えても、この大航海がどれだけ勇気
の要ることだったかが分かります。
北室さんは勝田船主や茅原船長に共通
するものとして「義侠心」を挙げ
られています。
身を捨てる覚悟で子供たちの救出活動
に臨んだ先人の生き方に、私たち
も学びたいものです。
『致知』2018年5月号【最新号】
特集「利他に生きる」P36
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝