薩摩隼人を育んだ郷中教育のすさまじさ。
7歳からの15歳ぐらいまでの稚児は、毎
日、指定された場所に、午前と午後に
集合して剣術、相撲、旗取りなど
の練習を行った。
これを稚児頭が指揮し、さらに
15歳以上の二才が指導した。
また『大学』『論語』なども読み合った。
二才は藩校の造士館で朱子学を教材に漢学、
習字を習い、午後になるとそれぞれの師や
友人とともに学問、武技の練習を行い、
稚児たちの指導に当たった。
そして、三大行事があった。『曾我兄弟』の
輪読と、島津義弘の菩提寺・妙円寺まで完全
武装の行軍、『赤城義臣伝』の輪読の3つ
である。曾我兄弟の「孝」を学び、関
ヶ原の敗北を噛みしめ、赤穂浪士
の「忠」を学ぼうという集団行動である。
肉体を鍛え、忠孝の心を養い、質実剛健
の貴さを学ぶ若者達は、長幼の序
を厳しくしつけられた。
このような共同体の中で、ともに育って
いく仲間の結びつきは、兄弟よりもある
意味では強い精神的な肉親感とでも
呼ぶべき信頼関係を育てた。
下加治屋町はわずか70戸で、この郷中
から西郷隆盛・従道兄弟、大山巌、
東郷平八郎などが出た。
大久保利通もこの郷中で、西郷
とは早くから親しかった。
島津斉彬は派手好きな島津重豪ゆずりで
蘭学を好み、そのスケールの大きさ
は絶品といわれていた。
スケールのケタが違う勝海舟。勝との話し
合いの後、西郷は、「最初は徹底的におさ
えこもうと思っていたが、話にはまこと
に感服した。学問見識に優れた人は
ほかにもまだいるが、日本の現状
についての判断は、勝先生が
一番です」と述懐した。
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