山岡鉄舟という人をご存じですか?学校の教科書
に名前こそ出てきませんが、明治維新を語る上
では決して忘れてはいけない人物です。
その鉄舟にまつわる話の一部を
ご紹介しましょう。
───────「今日の注目の人」───
☆ 山岡鉄舟の歩いた道 ☆
平井 正修(全生庵住職)
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勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と
並び称される山岡鉄舟は、天保七(1836)年、
幕臣であった小野朝右衛門高福の四男と
して江戸の本所に生まれました。
幼少期より剣・禅・書の修行に励み人物を
磨いてきた鉄舟は、凋落著しい幕府の限界
を見極め、速やかに朝廷の命を奉じて
攘夷を成し遂げ、大政奉還を図る
べく立ち上がりました。
大政奉還後、鉄舟は新政府東征軍の総攻撃で
江戸が火の海となるのを回避すべく、15代
将軍徳川慶喜の使者として勝海舟の手紙
を携えて東征軍の大総督府に乗り込み、
西郷隆盛に徳川慶喜の恭順の意を伝
えて攻撃の中止を訴えます。
これによって西郷と勝海舟の会談が実現し、
江戸城は戦火を逃れ無血で明け渡される
ことになったのです。
維新後は新政府に仕え、10年にわたり若き
明治天皇の侍従を務めた後、春風館という
剣術道場を開いて人材育成に励み、明治
21(1888)年、53歳で亡くなりました。
こうした足跡を辿ると、尊王攘夷の立場で
活動していた鉄舟が、江戸城無血開城に
向けて動いたところに人生の一大転機
があったことが見て取れます。
ある意味変節とも取られかねないこの行動
の転換に対し、批判めいたことを言う人が
皆無なことも、また注目に値します。
山岡鉄舟という人は……
※鉄舟は明治維新で大きな働きをしたばかりで
なく、剣、禅、書の道を極めたこと
でも知られています。
『致知』最新号で、その大人物の
一端に触れてみてください。
『致知』2017年3月号【最新号】
特集「艱難汝を玉にす」P30
今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。感謝!