佐治敬三という男は、まさに太陽の
ような存在であった。
いや、太陽であろうと努力した人であったと
言ったほうがいいかもしれない。
彼もまた、じつは開高同様の繊脆さを
内に秘めていたのである。
だからこそ理解しあえる部分が
あったのは間違いあるまい。
豪快に見えて、気配りは人一倍である。
情にもろく、人一倍笑ったが、
人一倍涙も流しもした。
これは、高度成長期という混沌と矛盾がまじり
あった時代に、不思議な運命の糸で結ばれなが
ら、破天荒で「ごっつおもろい」生き方を
してみせた、二人の友情の物語である。
元祖やってみなはれ。
鳥井信治郎という人物は、破格のスケール
を持った伝説の起業家であった。
「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助に
とっても仰ぎ見る存在であり、「鳥井
さんには横綱格の貫禄がありました」
と最大級の賛辞を贈っている。
信治郎は1879年、両替商の鳥井忠兵衛の
次男として、大阪の釣鐘町に生を享けた。
ここは、江戸中期から大正期まで日本の商業
の中心地であった大阪の中でも、とりわけ
商人の町として栄えた「船場」と
呼ばれる地域である。
商家では長男が大事にされ、次男以下
では扱いがまったく違う。
信治郎は大変に勉強がよくでき、小学校を
飛び級して大阪商業学校に進んだが、一年
ほどしか通わせてもらえないまま、13歳
のとき、丁稚奉公に出された。奉公先
は、道修町にある薬種問屋だった。
道修町の商家の凄みは、取扱商品こそ
変遷があるものの、その多くが現在
まで生き残っていることだ。
薬種問屋は「薬九層倍」(くすりそうばい:
薬の売値は原価の9倍という意味)という
言葉があるほど利の厚い商売である。
彼らが生き残った秘密の一端は
まさにそこにあった。
そもそも船場商人は儲けに対して貪欲だ。
「衣食足りて礼節を知る」などと難しい
言葉で語らずとも、まず儲けることあ
りきだという認識は徹底している。
佐治敬三の長男である佐治信忠は慶應義塾
大学を卒業後、UCLAの経営大学院に
留学し、MBAを取得して帰国した。
学んできたことは、M&Aを含むアメリカ
の最新の経営ノウハウだ。
すぐにでも実地に生かしてみたくてうずうず
していたはずだが、すぐにサントリーに
入社したわけではなかった。
以前から「他人の飯を食ってこい」と言って
いた敬三は、親しい盛田昭夫に頼んで、
ソニーに就職させる。
秋葉原の電気店の店頭に立ち、セールス
のむずかしさを体で学んだ。
その後、仙台に転勤となり、自由を謳歌して
羽目をはずしそうになったため、修業
を3年で切り上げさせた。
こうして信忠はサントリーに入社する。
最初配属になったのは経理部門であった。
モノだけでなく、カネの動きを知るのは
経営者の学ぶべき必須科目だ。
佐治敬三は絶えず、「金太郎飴になっ
たらあかん」と繰り返し、現場も
それに応えようとした。
積極的に何かをしようとして失敗し、それを
正直に告白した人に対しては、賞を贈って
みんなで笑い飛ばし、今後の教訓と
していけばいい。
そんな明るさが、この会社
には横溢していた。
そして敬三もまた、日々「エドヴァス・ノイエス」
を見出すべく知恵を振り絞っていた。
彼はメモ魔である。
何か思いついたらすぐその場でメモをとる。
自動車に乗っていても飛行機に
乗っていてもそれは同じ。
興味を引いた新聞や雑誌の記事には線を引き、
「よそに負けるな」「宣伝にどうか?」「至
急研究!」といった走り書きをして、Kに
マルをした「敬三サイン」をして部下に回す。
そのサインが「め」のように見えること
から、「マルめメモ」と呼ばれていた。
一年間のメモを集めると、その厚さが
25センチにもなったという。
開高健は、編集者のための心得を説いた。
いわゆる「出版人マグナカルタ9章」だ。
1.読め。
2.耳をたてろ。
3.両眼をあけたまま眠れ。
4.右足で一歩一歩歩きつつ、左足で跳べ。
5.トラブルを歓迎しろ。
6.遊べ。
7.飲め。
8.抱け。抱かれろ。
9.森羅万象に多情多恨たれ。
上の諸則を毎日3度、食前か食後に
暗誦、服用なさるべし。
北康利『最強のふたり:佐治敬三と開高健』
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今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。感謝!