( 前号からの続きです )
しかし、こうした他を無視して肥大化したもの
は、巨大になり高度発展をすればするほど、
ちょうど高く積み上げたモザイクや、
高所にかけた梯子を登りきった
人は、土台が揺らぐとひとたまりもなく、
落下するように崩壊を早めます。
そうした危機を乗り切るためには、常に自分を
成り立たせている外部の異質なものとの、共存
共栄を図る必要がありましょう。
かって松下電器(パナソニック)の創業者である
松下幸之助氏(1894-1989)は、「企業は人なり」
との信念のもとに次のように語っています。
企業というものは、どんな業種であれ、世の
人々の求めがあればこそ成り立っている。
つまり、企業は、世間の求めに応じて世の中
の人々に役立つべく存在している、公の
機関であると考えられる。
おまけに企業は、天下の土地、天下の人、
天下の物を使っているのである。
経営者、責任者は常にこの企業は公のもの、
社会のためにあるものという考え方に
立たねばならないと思う。
自分が興した企業であったにしても、決して
”私の企業”ではないのである。
そのような認識に立つなら企業の活動にあたって
人を使うことも私事ではなく公事である。
自分一個の都合、自分一個の利益のために人を
使っているのではなく、世の中により役に立つ
ために人に協力してもらっているのだと
いう事になろう。
こうした考え方は仏教で説く「三輪清浄」(さん
りんしょうじょう)に似ています。
すなわち、三輪とは、施す人(能施)(のうせ)と、
施される人(所施)(しょせ)と、その間に介在
する施すもの(施物)(せぶつ)の三者が、共
に喜び合う状態になった時、施すことの
意義がまっとうされ、お互いが生か
される、というのです。
これを企業に置き換えるとするならば、生産者や
商人などが生産物を消費者に売る時に、企業体が
粗悪品を一方的に消費者に売りつけて、儲けた
だけではだめで、消費者が必要なものを買っ
て喜び、購買品が有効に使われ、それに
よって売り主も儲かって喜ぶという、
三者が共に喜び合うのでなければ、
本当の経済行為にならないこと
を意味しています。
こうした共生の思想を、かっての東京、芝の
増上寺(浄土宗大本山)第82世法主・椎尾弁匡
(しいおべんきょう)博士(1876-1971)は、
「こころ生き 身生き 事生き 物も生き
人みな生きる とも生きの里」と、詠んでいます。
極楽・浄土という世界は、なにもあの世にあるの
ではなく、この世の現実世界を、お互いが騙し合
いの搾取や犠牲の社会ではなく、共に喜び合え
るようなところにすることだ、というのです。
私達は、取り巻く自然的、人為的環境の中にあって
生かされつつ生きている事実にいち早く目覚め、
お互いが助け合って共に幸せになれるよう、
感謝しながら謙虚に生きるべきでしょう。
( 仏教伝道協会 みちしるべより )
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!