釈尊(しゃくそん)の在世当時、その弟子に
チュ-ラバンタカという男がおりました。
彼は物覚えが悪く、いつも他の弟子たちから、
さげすまれていました。あるとき彼は釈尊に、
「どうしたならば自分のような愚か者が
悟りを得ることが出来ましょうか」と
問いかけたところ、師は、一本の箒
をあたえて、「これで毎日周囲の
塵を払い垢を除きなさい」と
教え、それからは字句通り
忠実に周囲をきれいに掃除することに専念し、
そこから師の教えである「人の世の迷いは塵
や垢なり。智慧はこれ心の箒なり」の意味
するところを身をもって知り、他の弟子
たちよりも、早く悟ることが出来たといいます。
このことから実践を重視する仏教寺院の生活は
「一に掃除、二勤行(ごんぎょう)、三学問」と
いって、勉強をして下手な知識をつめ込む
事よりも、まず周囲をきれいに掃除して
整理整頓すること、そしてお経を
実際に読むことを優先し、それ
がすんでから勉強せよ、と進めています。
さいわいなことに、日本人は清潔好きといわれ、
大人になると自分の身辺だけはきれいにします
が、まだまだ公共物を粗末にしたり、自分の
心をきれいにすることを怠っているようです。
「足を洗える水は不浄にして飲むべからず」
『法句譬喩経』(ほっくひゆきょう)にあるこの句は、
愚かな人間の行いについて当たり前のことを淡々
と語っているように見えますが、実は釈尊自身
が苦い経験に基づいて弟子たちに諭したものです。
釈尊は出家以前にラ-フラという一子をもうけ
ましたが、彼が十二、三歳の時に父の弟子と
なり、その許で修行していました。
ところがラ-フラにはときおり嘘をつく悪い癖
があり、釈尊のところへ訪れて来た人が、「師
はどこにおられるか」と尋ねた時、「ギジャ
ク-タの丘でしょう」と平気で嘘をつきました。
釈尊はそのとき竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)
にいたのです。このことを知った訪問客は
烈火の如く怒りました。
それを伝え聞いた釈尊は、我が子をいさめる
べく彼の修行場へ立ち寄ったのです。
父から叱られることを覚悟していたラ-フラは、
神妙に父を迎え、桶(おけ)の水でその足を洗っ
て差し上げたところ、すかさず釈尊は、「ラ-
フラよ、お前は私の足を洗った水を飲み食
いに使うだろうか」と尋ねました。
「汚れているから役に立ちません」と答えて
ラ-フラは水を捨てました。
その桶を持った釈尊は、「ラ-フラよ、お前は
この水の器に飲物や食物を盛るだろうか」と
問いかけました。
「入れません」とラ-フラが答えるやいなや、
釈尊はその桶を下に落としたので
壊れてしまいました。
「ラ-フラよ、お前はこの桶が壊れてどう思う
か」と、なおも釈尊が問いかけると、ラ-フラ
は、「どうせ足を洗った容器で、大したも
のではないから気にしません」と、
いとも気安く答えました。
それを聞いた釈尊は、「そうであろう。誰も
汚れた器など気にかけまい。
人間も同様に、嘘を平気で突くような穢れた
心の持ち主は、ちょうどこの器のように人々
から愛されず、見捨てられてしまうのだ」
と戒めたのです。
ラ-フラは非を認めて以後は決して嘘をつか
ないことを師の父に誓ったといいます。
昔の道歌(どうか)に、「掃けば散り 払えばまた
も散り積もる 庭の落ち葉も人の心も」とある
ように、環境も人心もこれで完全にきれいに
なった、という状態は永遠に訪れる事はありません。
私達は毎日、自分の周囲も内心も、鏡のように
澄みきった状態が保てるよう、払い清めて
ゆかないければならないのです。
たとえ、いくらそれがつらいことであっても。
( 仏教伝道協会 みちしるべより )
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!