自分自身生き方の強さ・深さ・広さを磨き続ける (2-1) 第 110 号

 身(み)を蔵(かく)して影(かげ)を露(あらわ)す

 自分の身内以外の人に対しては、愛想よく愛嬌

を振りまいていた人が、こと身内に対しては、

人が変わったかのように無愛想でつらくあ

たるのは、世間にままある事ですが、

こうした二重人格的な生き方は、

私達が社会的生活を営む以上、

大なり小なり避けられないようです。

 もし家庭の内外で、同じような態度や振る舞いが

出来れば、それにこしたことはありませんが、身

内以外の人に対しては、時には内心いくらいや

であっても、笑顔を取り繕い機嫌を損なわ

ないように接しなければ、対人関係が

ぎくしゃくし、けんか別れをして

孤立をしてしまうことになりましょう。

 それでも平気でいられる人なら、何をかいわんや

ですが、特に公的な立場にある人や商売をして

いる人にとっては、相手の気持ちも察せず、

自分勝手な考えや振る舞いを押し付けて

いたのでは致命的です。

 こうして相手に気を使えば使うほど神経がすり

減り、ストレスが溜まって、その代償や気休め

として、気兼ねのいらない家庭に帰った時

には、身内のものに、外での抑圧された

不平や不満をぶちまけて、うっぷん晴

らしをすることは充分考えられます。

 ところが身内のものにとっては、常にそうした

うっぷん晴らしの標的や受け皿にさせられた

のでは、溜まったものではありません。

 外での不平・不満は、自分の心の中で処理し

て家に持ち帰らないことが理想でしょう。

 人間は、一方では高度な芸術文化を生み出す

かと思えば、他方では醜い争い事を起こして

自他ともに傷つき、強いかと思えば弱く、

まともかと思えばだらしがないものです。

 私達は常に理想と現実を共有する、矛盾に

満ちた存在といえるかもしれません。

 釈尊(しゃくそん)が悟ったこともこれら二辺の

極端を離れ中道(ちゅうどう)を説くことでした。

   釈尊は、出家前に経験した快楽や出家後の

  苦行も悟りへの正道(しょうどう)でないと

  して、弟子たちに、「これらの二つの

  極端に近づかずして私は中道を悟った。

   それは眼を作り、智を作り、寂静(じゃくじょう)、

  証智(しょうち)、正覚(しょうがく)、涅槃(ねはん)

  に導くものである」と述べられ、琴糸のたとえ

  を取って、「琴の糸をゆるめすぎると美しい

  音色が出ず、きつく締めすぎると糸が

  切れてしまう。

   このように修業するにも怠けると心がゆるみ、

  きつく締めすぎると緊張してはりさけてしま

  うから、心身ともにほどよき中道を保つが

  よい」と諭されています。

 この中道とは、数字で解く両極端を二で割った中間

というようなものではなく、ちょうど紙には裏表に

実体があるのではなく、したがって紙の表面が

裏面と領分争いをする愚かさを避け、紙その

ものになりきって、その本領を発揮する

ことを指します。

               ( 長くなりましたので次号に続きます )

 今回も最後までお読みくださり、

       ありがとうございました。 感謝!

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