心とこころが共振しほほ笑み合う (2-2) 第 131 号

 たとえば、同じ屋根の下で家庭生活を営み、

四六時中顔を合わせながら、同床異夢(どう

しょういむ)で心の交わりがなく、離れ

ばなれになっている人がそれです。

  室町時代初期の禅僧・大燈国師

   (だいとうこくし) (1282-1338)は、

 「億劫(おっこう)に相別れて、しこうして須臾

(しゅゆ)も離れず、盡日(じんじつ)相対して、

しこうして刹那(せつな)も対せず」

 (離ればなれになっていても離れておらず、

会っていてもひとつも会っていないことも

ある)と愒破(かっぱ)しています。

 心の交わりが無ければ、いくらそばに相手が

いてもいないのと同然だ、というのです。

 お互いが相対して、真実の心と心の交わり

があれば、たとえその相手がそばにいても

いなくても(いたほうが良いが)、その

心が通じ合うものです。

 こうした感応道交(かんのうどうこう)の境地を、

仏教では「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)」とか

「仏眼相看(ぶつげんそうかん)」といい、

自分の中の仏心が相手の中の仏心と

共振しほほ笑み合うのです。

  フランスの作家・操縦士のサン・テグ

 ジュペリ(1900-1944)が『地の人』で、

 「ほんとうに愛するとは、お互いがお互いを

見つめ合うのではなくして、お互いが同一方

向を見上げることである」と述べているの

も、同じような意味でしょう。

 英語では、人と出会っても、言葉を交わさ

なければ「私は彼(彼女)を見た」といい、

語り合って初めて「私は彼(彼女)と

会った」といいます。

 ほんとうの出会いは、ただ言葉を交わして、

その意味を理解しただけでは不十分で、そ

の言わんとするところの奥深いところで、

同調し合うものでなければなりません。

 この章の句の字句通りの解釈は「善い言葉

は表現が簡潔であるが意味は深長なものだ」

という意味ですが、いくら表現された言葉

が美しく的確であっても、それを語る人

の心が奥床(おくゆか)しく、み仏の心

に通じる本心から出た言葉でなけれ

ば、語った言葉の意味は深長に

ならないでしょう。

 そうした言葉は、口からでまかせの人

からはとうてい得られません。

 「眼は心の窓」とか「目は口程に物を言う」

といわれるように、慈(いつく)しみの心を

もって「和顔愛語(わげんあいご)」で

お互いが向かい合い、語り合った

とき、はじめて可能になるの

ではないでしょうか。

      ( 仏教伝道協会 みちしるべより )

 今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。 感謝!

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