たとえば、同じ屋根の下で家庭生活を営み、
四六時中顔を合わせながら、同床異夢(どう
しょういむ)で心の交わりがなく、離れ
ばなれになっている人がそれです。
室町時代初期の禅僧・大燈国師
(だいとうこくし) (1282-1338)は、
「億劫(おっこう)に相別れて、しこうして須臾
(しゅゆ)も離れず、盡日(じんじつ)相対して、
しこうして刹那(せつな)も対せず」
(離ればなれになっていても離れておらず、
会っていてもひとつも会っていないことも
ある)と愒破(かっぱ)しています。
心の交わりが無ければ、いくらそばに相手が
いてもいないのと同然だ、というのです。
お互いが相対して、真実の心と心の交わり
があれば、たとえその相手がそばにいても
いなくても(いたほうが良いが)、その
心が通じ合うものです。
こうした感応道交(かんのうどうこう)の境地を、
仏教では「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)」とか
「仏眼相看(ぶつげんそうかん)」といい、
自分の中の仏心が相手の中の仏心と
共振しほほ笑み合うのです。
フランスの作家・操縦士のサン・テグ
ジュペリ(1900-1944)が『地の人』で、
「ほんとうに愛するとは、お互いがお互いを
見つめ合うのではなくして、お互いが同一方
向を見上げることである」と述べているの
も、同じような意味でしょう。
英語では、人と出会っても、言葉を交わさ
なければ「私は彼(彼女)を見た」といい、
語り合って初めて「私は彼(彼女)と
会った」といいます。
ほんとうの出会いは、ただ言葉を交わして、
その意味を理解しただけでは不十分で、そ
の言わんとするところの奥深いところで、
同調し合うものでなければなりません。
この章の句の字句通りの解釈は「善い言葉
は表現が簡潔であるが意味は深長なものだ」
という意味ですが、いくら表現された言葉
が美しく的確であっても、それを語る人
の心が奥床(おくゆか)しく、み仏の心
に通じる本心から出た言葉でなけれ
ば、語った言葉の意味は深長に
ならないでしょう。
そうした言葉は、口からでまかせの人
からはとうてい得られません。
「眼は心の窓」とか「目は口程に物を言う」
といわれるように、慈(いつく)しみの心を
もって「和顔愛語(わげんあいご)」で
お互いが向かい合い、語り合った
とき、はじめて可能になるの
ではないでしょうか。
( 仏教伝道協会 みちしるべより )
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!