私達は、この世に生を受けて以来、衣類とか
宝石とか電化製品などの見回り品から、財産、
肩書、権力の類(たぐい)に至るまで、いろ
いろなものを所持してきましたが、それ
でもまだ足りず、もっとたくさん、よ
り良いものを所持したいと願っています。
しかし、そうしたものを所持して「もうこれ
で十分だ」と満足する人は少なく、次から次
へと、新たな欲望がわき、そのとどまると
ころを知らないかのようで、気がついた
時には、すでに人生の終着駅に着いて
しまい、すべての所持品をこの世に
置き去りにして、あの世に行か
なければなりません。
よくよく考えてみると、この世で私達が獲得
したものは、生きるために必要な衣・食・住
などの必需品以外は、ただ自分の身辺を飾
るアクセサリ-にすぎず、それらを所持
することは、ある程度自尊心を満足
させても度が過ぎると、誇りに
なるどころか埃となり、財産
税や贈与税の対象となって
後継者を苦しめかねません。
もし、そうしたものは、私達のこの世での一時
預かり品であり、世間のために有効に使う手段
を自分が託されているのだ、という発想が出
来れば、どれほど気楽でよいでしょう。
禅者の澤木興道(さわきこうどう)師
(1880-1965)はかって、
「人生のしあわせは金持ちになることではない。‥‥
名誉や金は人生の最終価値ではないのだ。
人生でしあわせなことは、人のためになることだ。
人のために一生を捧げた者は非常に尊い‥‥」
と語っています。
金品は、ためること自体に価値があるの
ではなく、それを有効に使うところに
価値が生まれてくるものです。
「本来無一物」とは「もともと人間は裸で
生まれ裸で死んでいくのであるから、生き
ている間は何も持たずにおれ」という事
ではなく、「なくてもともと」と考え、
あるものは所持品としてでなく、天
からの預かり品として有効に使う
事を、すすめた言葉です。
「世の中には一つとしてわがものというものなし。
すべてただ因縁によって我に集まりたるものにすぎず、
ただ預かるのみ」 『法句比喩経(ほっくひゆきょう)』
ふつう私達は自分の体は自分の所有物だと
考え、自分の自由になるものだと思って
いるのではないでしょうか。
しかし、はたしてそうでしょうか。
自分の体が傷つけられて血がほとばしり、
「血液よ、お前は私のものなのだから止
まってくれ」と懇願しても血は勝手に流れます。
悩み事にさいなまれて、「神経よ、お前は
どうして私をそんなに苦しめるのだ。
お前は私の所有物なのだから私を苦しめ
ないでくれ」と力(りき)んでみたところ
で一向に悩みはなくなりません。
( 長くなりましたので 第151号 に続きます )
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!