最善の努力を尽くして天命を待つ (2-1) 第 160 号

心(こころ)の矢(や)は石(いし)にも立(た)つ

 中国の漢の時代に、李広(りこう)という弓の

達人がいて、匈奴(きょうど)を征伐(せいばつ)

するとき、右北平(うほくへい)というところ

で猟を試み、草のなかの石を見て、さては

虎だと思い、一念をこらして矢を放った

ところ、うまく当たったので、駆けつ

けてみると、それは虎ではなく

石であった、という。

 この故事から「思う念力岩をも通す」

ことのたとえに用いられています。

 

 ふつう、私達は試験や仕事や事業などに

成功すると、その原因を本人の能力

や努力や運に求めるようです。

 そして、万一、失敗したときには、本人の

能力や努力にその原因を帰するとなると、

逃げ場がなく救いようがないので、た

いていは運のせいにして、その場を

取り繕い、「自分は最善の努力を

尽くしたにもかかわらず不徳の

いたすところで失敗した」と

いって責任を運に転嫁してしまう。

 そうすれば他人からの批判をかわす

ことが出来るし、自分を責めなく

ても済むことになります。

 そこでは、本人の能力のなさもハレモノに

さわるように、不問にされ、他人から問題

にされることはほとんどありません。

 私達がよく耳にする「人事を尽くして天命

を待つ」というのも、能力はさておき、

最善の努力をしてあとは運を天に

まかせる、ということで、努力

か運かの二者択一を迫る言葉です。

 私達はたいてい、努力をしないで運を天

にまかせるよりも、あくまでも成功は

本人の努力次第という「努力至上

主義」を取ることになります。

 こうした考え方から、日本人はとかく猛練習

や特訓を好み、世界に冠たる教育熱心や進学

競争を生む原因となったのでしょう。

 

 その点、欧米人はどちらかといえば本人の

能力を重視し、先天的な才能や後天的な社

会環境によって既に格差があるのだから、

能力に応じて努力すればよいという道

を選び、本人の努力次第という苛酷

(かこく)な競争を回避する傾向があります。

 こうしてみると、日本人は欧米人のように

能力本位の客観的条件よりも、本人の努力

次第で必ず報われるという、自律的条件

を重視する国民だといえましょう。

 確かに、ゆき過ぎた「努力至上主義」は

いろいろな弊害(へいがい)を伴い、その

限界をわきまえないと自主規制のブレ

-キがかからず、個人や集団を狂気

や過労死に追いやることもありえます。

 しかし、はじめから能力の格差にかまけて

努力することをあきらめ、競争に負けた

原因や責任を他に転嫁することは、

人間の進歩・向上を無視した

生き方といえます。

   ( 長くなりましたので 第 161 号 に続きます )

 今回も最後までお読みくださり、

       ありがとうございました。 感謝!

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