心正しければ事(こと)正し
この句は、「心水の如し。源(みなもと)
清ければすなわち流れ清し。心正しけ
れば事正し」からとったもので、結
果よりも動機を重視した生き方
をすすめたものです。
利潤を上げることを目的とする、世の多くの
経済活動では、手段はどうあれ、儲からなけ
れば経営が成り立たないことから、動機よ
りも実益を重視する、結果主義になら
ざるを得ないことになりましょう。
こと経済の世界では、実益や実績が重視され
て、それに携わる個々人の動機という目に
見えない部分は、無視されるか不問に
付されて、目に見える結果だけで、
価値が測られる傾向にあります。
動機よりも結果を優先するとなれば、弱肉
強食の自然淘汰によって、人間の価値は
物量化されて強いもの勝となり、目に
見えない不利な立場にある人々は、
立つ瀬がなくなることでしょう。
だからといって、従来のように「嘘をついて
はいけない」とか「他人に迷惑をかけては
いけない」とか「隣人の喜ぶようにせ
よ」といった、個人的な良心や道徳
律だけでは、世間を救えない
ことも事実です。
仏教の思想や実践は、もともと個人の解脱(げだつ)
を目的とし、その枠組みの中で、利他(りた)の
精神である慈悲や布施などを、他に及ぼす
ことを重視し、最初から人間社会とか
環境世界を問題としたわけではありません。
しかし、今日のように地球の温暖化や生態系
の破壊、資源の枯渇、公害、動・植物の種の
絶滅など、地球全体の危機的状況の中で、
すべての人間が、私達の環境世界の
成立と保全に、共同で責任を負っ
ているといえるでしょう。
この世界は、お互いが持ちつ持たれつの、
相依相関の縁起の思想に基づいて、すべ
ての現象が生成発展をしており、どれ
一つとして孤立した存在ではありません。
そうした中にあって「自分だけが」とか
「人間だけが生き延びればよい」といっ
た、自己中心的な考えや生き方はもは
や許せない状況に立たされています。
地球上の人々は一つの家族であり、他国や
他人の危機や災害を、対岸の火として、安
閑として傍観していることでは、済まさ
れなくなっています。
しかし、仏教の思想を実現するために、同事
同情の精神をどこまで感ずるかという範囲や、
責任をどこまで負うのか、といった問題は、
現時点においては、個別的かつ総合的に、
判断すべきではないでしょうか。
以上のような仏教思想に基づく生き方は、
自己中心的な動機や、結果のいずれかを
重視する微視的なものではなく、グロ-
バルな視野のもとに、自分の足許か
ら周囲との関係改善を心がけるべきでしょう。
それにはまず、私達は生かされつつ生きて
いる、自分の存在に気づくことです。
詩人の榎本栄一(えのもとえいいち)(1903-1998)
さんは、次のような詩を詠んでいます。
私の中 覗(のぞ)いたら お恥ずかし
いがだれよりも自分が一番かわいいと
いうおもい コソコソうごいている
こうした気持ちがなくて、ただ目先の実益や、
実績を上げることだけを目的に生きてゆくと
したら、たとえ、それが実現できたとし
ても、人生はむなしいものとなることでしょう。
( 仏教伝道協会 みちしるべより )
今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。 感謝!
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