信(しん)は是(これ)仏子(ぶっし)なり
ふつう、私達は「信」という言葉を、信心、
信仰、信用、信頼などと用いて、広い意味
を持っていますが、み仏や人々と良い
相互関係が結ばれたときに、成り
立つものと考えられます。
ここに引用した『宝積経(ほうしゃくきょう)』
は、大乗仏教の経典で、菩薩(ぼさつ)という
悟り(菩提ぼだい)を求める人々のために説
かれ、「信」の大切さが強調されています。
そして、この章の句にあるように、信ずる
人が仏の子にふさわしい、と言っています。
では、いったいどういう事が信ずること
なのか、というと、この経典で釈尊は
次のように語っています。
カ-シャパよ、次のような四つのあり方が
あるとき、菩薩は優れた智慧(ちえ)
を体得する。すなわち、
(一) 教えと、教えを説く師に対して、
尊敬の念のあること。
(二) 心に物欲がなく、利得とか礼拝(らいはい)
供養とか、名声とかを願わず、師から聞い
たままに、また悟り得たままに、教えを
他の人々に懇切に説くこと。
(三) 教えを多く聞くことによってこそ智慧が
生まれると知って、頭や着物に火がつい
たように急いで教えを聞こうと探し求
め、聞いたままにもろもろの教えを
たもつこと。
(四) 菩薩としての修業を第一の眼目として、概
念や言葉だけに憂き身をやつさないこと。
また、釈尊はこの経典の別の個所で、
次のように語っています。
カ-シャパよ、次のような四つのあり方が
あるとき、彼の菩提を求める心は混迷する。
すなわち、
(一) 教えや教えを説く師に従わず、
(二) 他の人々に後悔を生ぜしめ、
(三) 菩提に向けて志を起こした人々に、
誹謗(ひぼう)と悪評の言葉を語り、
(四) 他の人に近接するのに虚偽(いつわり)と
邪曲(よこしま)と詐術(だまし)とをもっ
てし、まことの志をもってしない。
このように、教えをまず聞き、それを実行する
ことによって信が成り立ち、悟りを得ることが
できる、というのです。
ここでいう教えとは、仏の教えを指しますが、
その仏と私達が、良い関係を結び、それと一
体になった時、仏を信ずる人といえましょう。
近ごろは、人間同士の信用や信頼の大切さを
説き、実行している人はいても、仏を信仰し
たり信心する人が少ないように見受けます。
その原因はいろいろ挙げられましょうが、
人知や医学が発達し、経済的にも繁栄し
て超越的存在としての、仏が信じられ
なくなり、貧・病・争というこの世
の救いを、仏に求めるよりも、人
間同士で解決できるという、確
信を持つようになったからではないでしょうか。
しかし、そこですべての問題が解決したわけ
ではなく、依然として不安感や不幸感にさい
なまれ、精神的苦悩を訴える人が多く、安
心立命(あんじんりつめい)には程遠いようです。
( 長くなりましたので 第 191 号 に続きます )
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!
九 州 方 向 に 祈 り を こ め て !!