救いを求める相手が見えなくなった結果、
それを信用や信頼のおけそうな人間に求
めて、すべての問題が解決できればそ
れに越したことはありませんが、時
には裏切られて、自分の心をズタ
ズタに切り裂かれ、人間関係を
台無しにしてしまったという
話をよく耳にします。
現代人にとって、もはや救ってくれる相手
が、どこにもいないとすれば、自分自身
を信ずるより仕方がありません。
しかし、はたして私たち自身が、信じるに
足る存在であるかどうか、大いに疑問です。
私たちが毎日、安心した生活をおくるには、
こざかしい自分を捨てて仏にまかせるべきだ、
と鎌倉時代の道元禅師(どうげんぜんじ)(曹
洞宗の開祖・1253年寂)は次のように
述べています。
ただわが身をも
心をもはなちわすれて
仏の家になげいれて
仏のかたよりおこなわれて
これにしたがいもてゆくとき
力をもいれず
心をもついやさずして
生死(しょうじ)をはなれ
仏となる
たれの人か
心にとどこおるべき。
自分がそうした客観的世界である仏を信じる
のではなく、自分のすべてを客観的世界に
なげいれ、まかせきって、そこから自分
を見てもらう、という仏と自分が一体
となった生き方です。
私達はよく「仏を信じる」とか「相手を
信じる」という言葉を使っていますが、
そこでは、あくまでも自分という主
観的な信じ方であって、こうした
信じ方は、自分の都合次第で変
化するもので、それは、ほん
とうの信じ方とは言えません。
ほんとうの信じ方は自分が信じるのでは
なく、仏や相手が自分を信じてくれる
ものでなくてはなりません。
ちょうど「信用」とは自分が勝手につける
ものではなく、相手が自分に対してつける
ように、はたして私達は、仏から信じら
れるような自分であるかどうかを、
問われているのです。
ほんとうの信じ方は自分が信じるのでは
なく、仏や相手が自分を信じてくれる
ものでなくてはなりません。
もし、信じられていれば私たちは仏の子です。
( 仏教伝道協会 みちしるべより )
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!
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