会者定離(えしゃじょうり)
この句は『平家物語』に、「生者必滅(しょう
じゃひつめつ)、会者定離は浮世の習いにて
候(そうろう)」と引用されて以来、一般
の人々にも「会うは別れの始め」と
同様に、広く用いられていること
はご承知の通りです。
今まで、顔を合わせ、仲良くしてきた人と
別れなければならなくなったり、相手が死
んでしまったときには、別離の悲しさが
ひとしおで、とくに最愛の子を亡くし
た親にとって、別れの辛さは身を
切られる思いでしょう。
そんな時、いくらお悔(く)やみに駆けつけ、
周囲のものが慰めや励ましの言葉をかけて
あげても、その悲しみが癒(い)
えるものではありません。
わが国の輩出(はいしゅつ)した偉大な哲学者
である、西田幾多郎(きたろう)先生(1870-
1945)がまだ若いころ、十四歳になった
お嬢さんを亡くされ、その気持ちを
次のように綴っています。
亡き我が児が可愛いというのは何の
理由もない。
ただわけもなく可愛いのである。
ここまで育てて惜しかろうという人が
いるが、親にとって損得ではない。
女の子でよかったですね、という人が
いるが、男の子なら惜しくて、女の子なら
惜しくないという比較ではない。
子を喪(うしな)った人はあなただけではない。
悲しんでいる人は大勢いるのだから、
あきらめなさいよ、忘れなさいよ、といって
くれる人がいるが、これは親にとって堪え
がたいことである。
せめて自分だけは一生思い出してやりたい、
というのが親の心である。
この悲しみは苦痛といえば苦痛だが、しかし
親はこの苦痛のなくなるのを望まない。
いくら、この世が無常ではかないものである
ことを、理屈では知っていても、いざ自分の
最愛の人を失ったときには、ただ無性に悲
しくて、その別離の悲哀(ひあい)を一人
で味わい、大切にしたいというのが
人間の情というものでしょう。
私たちは、普段多くの人と会っては別れ、
別れてはまた会うという毎日を繰り返し、
会うことも別れることもマンネリ化
して、特別の感慨(かんがい)を持
たずに過ごしています。
そういう出会いからは、おそらく何も学び
取るものはないでしょう。
しかし、身内の者だけでなく、私たちは
人との出会いによって友情を温め、自分
の人生体験を深めてゆくことが出来る
と思うのです。
ところが、そういう人との出会いも、いつ
でも出来るとタカをくくって、大切にして
いないのが実情ではないでしょうか。
仏教ではよく「一期一会(いちごいちえ)」
ということを申します。
「一期」とは私達の一生涯のことで、「一会」
とはただ一回の出会いをいい、一生涯で
たった一度の、めぐり合いをして
いることをさしています。
( 長くなりましたので 第 201 号 に続きます )
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!