ふつう、私たちは人や出来事に何度も出会って
いますが、よくよく考えてみると、その時の
出会いはその時の一度だけで、二度と同じ
機会が戻ってくることはないのですから、
何度出会いを重ねてもやはり毎回「一期一会」です。
そして、相手と再会を約束しても、何かの事情
で再び会えるとは限りませんから、もう二度と
会えないかもしれないと思って、今の出会い
を大切にしなければならないでしょう。
生きている間に、最愛の人との別れならば、
ある程度の悲しさや辛さは我慢が
出来ることでしょう。
あるいは出会いの大切さを知って、相手との
交わりも、いいかげんなものでなく貴重
なものとなることでしょう。
しかし、こと、その別れが他人に対してで
なく、自分自身が死に直面して、この世
の最愛の人から別れなければなら
なくなったときは深刻です。
古人がよんでいるように「ついにゆく道とは
かねて聞きしかど 昨日今日とは思わざり
けり」で、自分がこの世を去ってゆく
別離の辛さは、おそらく筆舌に尽く
しがたいものがあるはずです。
もし、自分がこの世をいやおうなく、立ち
去らなければならない時に(それは事実、
いつかは訪れますが)、いったい、
自分はどうしたらよいかを考え
ると、万感胸に迫るものがあります。
私達はふだん、そうしたことを考えず、お互い
が「いつまでも、生きている気の顔ばかり」で
安閑(あんかん)とした毎日を送っていますが、
いざ自分の死に直面し、最愛の人と別れな
ければならないとしたら、居ても立って
もいられないことでしょう。
しかし、たとえこの世で離ればなれになった
としても、あの世ではまた一緒になれると、
『阿弥陀経(あみだきょう)』には次の
ように記されています。
シャ-リプトラよ、極楽の世界のあること
を聞いた人びとは、かならずそこに生ま
れかわりたいとの願いをおこしなさい。
そうすればそこで再会できるからです。
鎌倉時代の法然上人(ほうねんしょうにん)
(浄土宗の開祖・1212年寂)は、ときの幕府
の念仏停止(ねんぶつちょうじ)の弾圧に
あって、多くの弟子たちと別れを告げ
て四国へ流罪(るざい)の身となり
ましたが、その別離のおりに、
「露の身は ここかしこにて消ゆるとも
こころは同じ花のうてなそ」
との一首の歌を弟子たちに残して、旅立った
といいます。
上人の心境はおそらく上記の『阿弥陀経』の
一節のように、この世ではお互いが、別れな
ければならなくても、おなじ極楽の世界に
往生(おうじょう)するのだという信仰を
持っていれば、かならずあの世で再会
できるという確信があったからだと思います。
( 仏教伝道協会 みちしるべより )
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!