過ぎたるはなお及ばざるが如し
冒頭の句は、孔子(こうし)が二人の弟子
である子張(しちょう)と子夏(しか)とを
比較して、その生き方や考え方が、ど
ちらも偏っているので、中庸(ちゅう
よう)を保つことの大切さを述べた
言葉です。
何事を行うにも、他人の言うなりになり、
世間の慣習に従っていれば無難であり、
気楽には違いないでしょうが、それ
では世間に押し流されて平凡な一
生涯を送るだけにすぎません。
私たちがどんな勉強やスポ-ツをするに
しても、「もうこれ以上は出来ない。も
しこれ以上続けたならば、心身がおか
しくなってしまう」という限界があります。
たいていの人はそこまで行きつかずに、
いいかげんなところで自分の努力を
放棄し、それで何とも思わず、の
んきな顔をしているようです。
それで事がすむうちはいいのですが、心
ある人ならば内心では後味が悪く、「最
後までやり遂げればよかった」
と後悔する事でしょう。
「落ち着く」という言葉がありますが、
本当に安心する境地にたどり着くため
には、自分をもうこれ以上は落ちる
ことのない奈落(ならく)のドン底
まで追い込んで、その地底に腰
を据えるのでなければ、心底
から「落ち着いた」という
ことにはなりません。
そこまで私たちは自分を追い詰めた
ことがあるでしょうか。
どの辺で落ち着くかによって、自分の実力
の程を知り、自信もつき、それと同時に自
分の実力以上のことが出来る他人を尊敬
し、自分自身は謙虚に振る舞えるよう
にもなるのではないでしょうか。
釈尊は、御自分の苦行ぶりを次のよう
に回想されておられます。
「昔のいかなるシュラマナ(沙門)(しゃもん)
やバラモン(祭司)(さいし)がどのような苦痛
を受けたとしても私の受けた苦痛は最高で
あってこれ以上のものはない。
また、未来のいかなるシュラマナやバラモン
が、どのようなはげしい苦痛を受けるとして
も、私の受けた苦痛は最高であって、これ
以上のものはない。
しかし、このはげしい苦行によっても、私は
通常の人や法を超越して最高の知恵に到達
することが出来なかった。
悟りに至る別の道があることに気付いた」
『中部経典(ちゅうぶきょうてん)』
試行錯誤(しこうさくご)しながら自分を
最高、極限のところまで追い詰めた人は
手探りであれこれ模索しているうちに、
「ハハ-ン、これだな」という一種
の悟りにも似た境地に達し、コツ
を探り当てるものなのです。
そうしたものは最初からわかるわけでは
なく、試行錯誤を繰り返しているうちに、
自然に体得するものでしょう。
( 長くなりましたので 第 231 号 に続きます )
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!