健全な精神は健全な肉体に宿る = 2-2 = 第 231 号

 釈尊は、自分の肉体を酷使(こくし)し、

犠牲にしてまでも精神の孤高(ここう)

をはかることが、ほんとうの生き方

であるとは思えなかったのです。

 「もっとましな、本当に人間らしく生きて

きたという実感の味わえる人生を送りたい」

と願って、家庭を捨て世間を捨てて一介

(いっかい)の世捨て人となって骨身を

削り、あるいは瞑想に、あるいは

苦行の努力を続けてきたのです

が、はたしてそれが、自分の

求めていた道であったのか

どうか、疑念も湧(わ)いてきたのです。

 むしろ、「健全な精神は健全な肉体に

宿る」といわれるように、肉体あって

の精神であり、肉体をよく整えてこ

そ健全な精神が培(つちか)われる

のではないかと考えられたのです。

 ナイランジャナ-河のほとりのシャ-ラ樹

の下で、そうした思索にふけっていたとこ

ろを、たまたま通りかかった近くの村の

娘スジャ-タ-の差し出した乳粥(ちち

がゆ)を口にして生気を取り戻し、岸

辺の水で沐浴(もくよく)してから、

ブッダガヤ-の菩提樹(ぼだい

じゅ)下に身を移して、七日

間瞑想にふけり、ついに

悟りの大覚(だいかく)を

成就(じょうじゅ)されたのです。

 私達は今日、悟りを開かれた釈尊を「仏陀」

と呼んでいますが、「仏陀」とは、世の

実相に目覚めた人、という意味に

ほかなりません。

『中部経典』によると、釈尊がスジャ-タ-

から食を供されて口にしたのを見て、ひそ

かに父が釈尊のそばに派遣した五人の

従者たちは、釈尊が悪魔の誘惑に

負けてぜいたくになり、苦行を

捨てて堕落(だらく)したかと

誤解し、当時、多くの修行

者たちが集まっていた

西方カ-シ国のヴァ-ラ-ナシ-方面へ釈尊

を見捨てて去って行ったといいます。

 しかし、悟りの確信を得た釈尊は、「まこ

とに熱意を込めて思惟(しゆい)する聖者に、

かの万法(まんぽう)のあきらかになれる

とき、その疑惑はことごとく消え去

れり」と喜びに満ち溢れておられたそうです。

 『無量寿経(むりょうじゅきょう)』には仏

をたたえて次のようにしるしています。

 「光顔巍巍(こうげんぎぎ)として威神(い

じん)きわまりなく、是のごとき燄明(えん

みょう)、ともに等しきものなし、日月

摩尼(まに)の珠光燄耀(しゅこうえん

にょう)なるも、皆ことごとく

穏蔽(おんぺい)して、猶(なお)し

聚墨(じゅもく)のごとし」

       ( 仏教伝道協会 みちしるべより )

 答えを教わるのではなく、

自分で経験を積んで得る。

今回も最後までお読みくださり、

     ありがとうございました。 感謝!

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