清貧のダンディズム、清瀬一郎弁護人。
東條にとって幸運だったことは、清瀬一郎
との出会いである。
清瀬は、東條の弁護を引き受けようと申し出る
弁護人がなかなか現れないため、陸軍省からの
要請もあり、最終的に東條の弁護人となる。
東條は、次のように明快に述べている。
「自分には法廷で述べたいことが3つある。
一つは、大東亜戦争は自衛のための戦争であったこと。
二つは、日本の天皇陛下には、戦争についての責任
がないということ。
三つは、大東亜戦争は東洋民族解放のための
戦争であったということである」
清瀬は日本人弁護団副団長、東條の
主任弁護人として活躍する。
当時、すでに60歳を過ぎ、白髪を無造作に
うしろに撫でつけた小柄な外見である。
しかし、裁判にあける清瀬はこの枯淡とした外見
とは別人のように、東京裁判の矛盾を次々と
明らかにしている。
この清瀬の功績は、今なお日本人として共有
すべき貴重な財産といえよう。
嶋田海軍大将の補佐弁護人であった瀧川政次郎は、
清瀬の活躍を法廷で眺め、「清瀬弁護人の冒頭
陳述は、まことに名優松本幸四郎の弁慶が
安宅の関で勧進帳を読み上げたような
もので、東京裁判のもっとも
華やかな一場面であった」と
清瀬の法廷での陳述を「弁慶の勧進帳」の
ようだった手放しで褒めている。
東京裁判当時の清瀬の生活は、極端な
貧乏生活であった。
清瀬は長い裁判の日々を古びて擦り切れた背広と、
古い大きな兵隊靴で市ヶ谷法廷に通い続けた。
当時の清瀬の写真を見ると、擦り切れた背広の
襟から、内布がはみ出している。
しかし、どこか遠くを見つめるその姿には、凛と
した男の生き様があふれている。
貧しさのなかにも明らかにダンディズムが
あることを確信させられる。
白洲次郎が英国流のダンディズムであるなら、
清瀬は日本流のダンディズムといえよう。
死をためらうことなく受け入れる国民服の東條、
擦り切れた背広の清瀬、すでに戦争は過去の
ものとなった日本で、2人は東京裁判と
いう徹底的に不利な戦場で新たな
戦いを続けるのである。
二人の写真や映像には、自分ではなく誰かのために
生きるという日本人としての男の生き様、時代を
超えたダンディズムがある。
東條証言の翌日、イギリス駐日代表部長ガスコインは
マッカーサーに、「東條の証言は、キーナンに完全に
勝っています。東京裁判に対する世論が心配です」
と伝える。「その通り。極めて心配である」
東條はキーナンだけでなく、マッカーサーさえも
窮地に追いやってしまったのである。
東條を追い詰めようとするキーナンの姿は、法廷
にいるすべての人の目に東條の引き立て役、
単なる脇役と映った。
キーナンが焦るほどに東條は悠然と答弁し、
死を覚悟した東條は神々しく輝いていた。
東京裁判の7人の死刑囚に立ち会った花山信勝
教誨師は、死刑のときの受刑者たちの安らかな
心を、後年、教え子たちに次のように語っている。
「死を与えられたとしても、最期の瞬間まで、命を
惜しんで、与えられた限りの時間を利用して、
いうべきことをいい、書くべきことを書い
て、そして大往生をとげることこそ、
すなわち永遠に生きる道である」
また花山は、巣鴨での最初の法話で次の
ように説いている。
「人生は、順境だけで終わった人が幸福と
いうわけではない。
逆境に落ちてはじめて、人生の真の意義を
つかんだ人のほうがどれほど幸福か知れぬ。
人生は有限であるが、未来は無限である。
無限の未来のために、有限の一生を有意義
ならしめることこそ大切である」
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