備(そな)えあれば患(うれ)いなし
この句は自分がなすべきことをすれば、
そこで備えがあることになり、備えが
あれば心配することはない、
という意味です。
私達が、もしも真暗闇の中に投げ出さ
れたとしたらどうでしょうか。
おそらく、手探りで一条の光を頼りに、
どこか明るいところに出られる戸口
でもないかと暗中模索するに
違いありません。
一切の望みを絶たれて、一日たっても
二日たっても、ただ一人ぼっちで暗黒
の世界にたたずんでいなければなら
ないとしたら、おそらく悲歎(ひた
ん)にくれ、ついには発狂して
しまうかもしれません。
さいわいなことに、私達は見ることが出
来、明るいところにいますから自分の所
在もわかり、その周囲に何があるかも
確認でき、歩くことも座ることも、
走ることも可能です。
お腹がすけば、どこに食物があるかも
わかるし、どこの菓子屋へ行けばおい
しいケ-キにありつけるかも、おお
よそ予想がつくはずです。
ところが、人生の迷路にはまり込んで、
お先真っ暗という精神的な悩みにさい
なまれたとしたらどうでしょう。
その苦しみや不安を誰に訴える事も出来
ず、解決策も見出せず、一人ぼっちで深
淵の谷底を見下ろす巌頭(がんとう)に
立たされて、ニッチもサッチもいか
なくなった暁には絶望し、自殺の
誘惑にさえかられてしまう
ことでしょう。
そうしたときに、人生の最終目的が示さ
れ、そこで救われることが確約されてい
れば、その途中にいかなる難関が待ち
受けていようとも、その光を頼りに、
安心して人生街道を歩んでゆくこ
とが出来るのではないでしょうか。
釈尊は、宇宙の理法(りほう)である ”縁起
の法„ に目覚め、仏陀(覚者)(かくしゃ)と
なって、自分の悟った教えにのっとり、
そのたどったと同じ道を歩むならば
救われると弟子たちに確約したわ
けですが、その釈尊の後塵(こ
うじん)を拝するのにあまり
にも時代が隔(へだた)っています。
そこで眼前に釈尊を見ることの出来ない
後世の弟子たちは、釈尊が遺言に、「私
の教えを見る者が私を見る」と語った
ように、宇宙の理法を悟った釈尊の
人格的な働きである智慧(ちえ)と
慈悲(じひ)によって必ず救われ
ると信じ、時代や場所を超越
して、いつでもその働きを
感じさせる、阿弥陀仏(如
来(にょらい))の信仰を
持つようになりました。
すなわち、歴史的人物である釈尊が体現
した智慧と慈悲の働きを、阿弥陀仏を通
して私達も感得できるというのです。
( 長くなりましたので 第 251 号 に続きます )
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!