後世の弟子たちは、宇宙の理法を ”法
身仏(ほつしんぶつ)„ 、それを悟った
歴史的人物である釈尊を ”応身仏(お
うじんぶつ)„、そのはたらきを伝
える阿弥陀仏を ”報身仏(ほうじ
んぶつ)„ と一応区別していま
すが、ちょうど壺にもその
素材と形と用途の別が
あるように、元来
は同一物の三側面といえます。
したがって私達は、宇宙の理法を悟った
釈尊の教えを通して、その働きを感得し、
自分も釈尊のたどった道を追体験する
ことにより、救いが確約される
ことになるのです。
釈尊が悟りを開いて仏陀という「目覚め
た人」になったのは、「自分の本来の姿
とはなにか」「自分をとり巻く世界の
本来の姿がなんであるか」が、よく
わかったということなのです。
『相応部経典(そうおうぶきょうてん)』
によれば釈尊は、
「もしも私に、いまだ満たされぬ戒
(かい)があり、定(じょう)があり、
また慧(え)があるならば、それらを
成就(じょうじゅ)するためには、
私は、他のシュラマナ(沙門(しゃもん))
もしくはバラモン(祭司)を尊重し
尊崇(そんすう)して、近づき住すべきで
あろう。
されど私は、この一切世界において、
私よりもよく戒を成就せるもの、定を
成就せるもの、また慧を成就せるもの
を見ることはできない。
しからば、私はむしろ、わが悟りし法、
この法こそ敬い尊びて、近づき住すべき
であろう」との確信を得られたといいます。
ここでいう「戒」とは身体的修行で、
「定」とは精神的修行を指し、これら戒と
定が、車の両輪のように法に照らし合わ
して体得されると「慧」という
智慧が湧くといいます。
「法」とは自分をとり巻く世界を成り立
たせている宇宙の法則ということで、
それがあらゆるものの規範となり、
秩序を保(たも)たせているのです。
釈尊はその法を悟り、戒・定・慧に
よって、体得した方なのです。
鎌倉時代の道元禅師(どうげんぜんじ)
(曹洞宗の開祖・1253年寂)も、この悟り
を追体験した人として知られています。
その著『現成公案(げんじょうこうあん)』
に、
「仏道をならうというは
自己をならうなり
自己をならうというは
自己をわするるなり
自己をわするるというは
万法(まんぽう)に証せらるるなり
万法に証せらるるというは
自己の身心および他己の身心をして
脱落せしむるなり」と述べているのも、
同じような悟りの体験内容を語って
いるのです。
すなわち、自分が万法という、いのち
の働きの中で生かされていることに
気づくことなのです。
( 仏教伝道協会 みちしるべより )
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!