事(こと)に敏(びん)にして
言(げん)に慎(つつし)む
「君子は言に訥(とつ)にして、行いに敏ならん
ことを欲す」という句と同じように、実行すべきこと
は速やかに実行し、言葉は控えめにして余計なことは
言わない、という意味です。
私達は、とかく文明の利器(りき)のお蔭で、自分の
頭や手足を働かせないで、なるべく機械に頼り、その分
だけ休んだり、他のことに専念することが出来、確かに
その方が時間や労力の節約になり効率的です。
このようにして、社会が高度に文明化すればするほど、
仕事が分業化・ロボット化して、従来の手作業的な農業
や商業や工業は次第にすたれ、情報産業やサ-ビス業が
盛んになっていくのは、時代の趨勢(すうせい)かも
しれません。
そこでは個人の突出した能力や技能は、かえって邪魔者
扱いされ、組織体に組み込まれた機械的人間が有能視され、
重宝されることになります。
こうした風潮の下では冒頭の句のような生き方は、時代
逆行もいいところで、有害無益なものとして一蹴(いっしゅう)
されかねません。
しかし、はたしてそれでよいのでしょうか。
「仏法の海に入るには信を根本となし、
生死(しょうじ)の河を渡るには戒を船筏(いかだ)
となす」
と『心地観経(しんじかんぎょう)』にありますが、
船筏というものは、河のこちら岸から向こう岸へ人荷を
運ぶために有用な手段ですが、渡し終えるとそれは不要な
ものとなります。
同様に私達が人生の河を渡るには、しっかりした心がけ
(信)(しん)が必要であることは言うまでもありませんが、
その心がけをよくするには、時には身だしなみをよく
すること(戒)(かい)によって、外側からその心を整える
ことも大切なようです。
昔から「心は形を求め、形は心をすすめる」と言われて
いますが、自分の心がけが良ければその態度や振る舞いも
よくなり、態度や振る舞いを良くすれば、その心もよく
なることを、私達は日頃よく経験します。
心と形とは表裏一体となって、私達をまともな生活へと
導いてくれるものです。
心がけさえ良ければ、どんな乱暴な言葉をはこうと、
どんなだらしないカッコウをしようと構わない、
というのは詭弁(きべん)にすぎません。
釈尊の弟子となり、その教団の一員となった人々は、
外形を整える手段として五戒を守っていました。
これは出家や在俗者(ざいぞくしゃ)を問わず、
日常生活の中で実践すべき基本的な戒めで、のちに
出家者の比丘(びく)は二百七十戒、比丘尼(びくに)は
三百十一戒と、多くの戒を守ることになって
いったのです。
( 長くなりましたので 第 261 号 に続きます )