「表正しき時は影正し」
「盤(ばん)円(まど)かなるときは水円かなり」
“自分自身の姿勢が正しい時は、地に映る影も
正しいものになる”という意味で、表とは形
あるもので、その形が整っていれば、お
のずとその内容も整うもので、形式を
重んじる教えと受け取られがちですが、
形を整えるということは、とりも
なおさず心の内容を形あるものに
表現し、心と形が相即(そうそく)
するように努めることに他なりません。
例えば心がけが、だらしない人の外見はどこと
なくだらしない格好になるもので、まただらし
ない恰好をしていれば、いつの間にやらその
人の心も、だらしなくなるようなものです。
自分の心が正しい方向性を持ったものならば、
その結果は正しい形となって現れ、曲がった
方向性を持ったものならば、その結果は曲
がった形となって現れるのは当然です。
したがって自分の心がけが正しい人ならば、その
人の行いも正しい結果となって現れましょうが、
もしだらしない人だったらだらしない結果し
か現れず、救いようがないことになります。
そうしただらしない心がけの人でも救いがある
とすれば、それは自分の心から直していくの
ではなく、形を整えることによって結果
から帰納的に、その原因となる自分の
心を直していくことが考えられます。
大乗(だいじょう)仏教で説く「聞(もん)・思(し)・
修(しゅう)」〈倶舎論(くしやろん)〉は、このだ
らしない人でも救われる方法を明示したもので、
まず、まともなことに聞き耳を立て、それを
よく自分で考え、そして実行することを進めています。
すなわち自分がたとえまともでなくても(まともで
あると自負している人はよほど御目出度い人で
しょう)、まともなことをよく聞き、それを
考え、実行することによって、まともな
方向に自分を仕向けることが出来るというのです。
ただまともな事を聞いて、考えただけでは不十分
で、それを自分で実行に移さなければ、
画に描いたぼたもちです。
その、まともな事を実行する手立てとして仏教
では「八正道」(はつしようどう)という八つの
正しい目標を私達に明示しています。
まず「正見」(しょうけん)とは正しく物事を
見ることで、いかなる場合でもすべての
物事を正しく見ることが先決です。
とかく私達は自分を中心にして自分の都合の
いいように物事を解釈しがちで、周囲の
ものを色眼鏡で見ています。
そうした偏見を捨て公平で率直に全体を長い目
で見渡すような見方をする事をすすめています。
その為にはあらゆる事に聞く耳を
持たなければなりません。
次に「正思」(しょうし)とは正しく考える事で、
物事の表面的な現象にとらわれる事無く、その
奥に潜む意味や価値を正しく判断する事です。
それには即断を避け深く熟慮する
事がすすめられます。
三番目の「正語」(しょうご)とは正しい言葉遣い
の事で、その為には妄語(もうご)(平気で嘘をつく)、
綺語(きご)(出まかせのいいかげんな言葉)、悪口
(あっこう)(人を誹謗する)、両舌(りょうぜつ)
(二枚舌を使う)、を慎み自分の真意を正しく
相手に伝える事です。
四番目の「正業」(しょうごう)とは正しい行いの事
で自他ともに喜んでもらえるような善行を真心を
持って行い、その報償を期待しない事です。
五番目の「正命」(しょうみょう)とは正しい生き方
の事で、自他の命を傷つけないで、生かし
合えるような生活を営む事です。
それにはまず、自分の心身を健康に保たせてくれる、
周囲のすべてのものに対して、報恩感謝の念を
もって生きてゆかなければなりません。
六番目の「正精進」(しょうしょうじん)とは自分の
この世でなすべき事に傾注することで、常に初心
に立ち返り、正しい努力を続けていくために、
自分自身を叱咤激励すべきでしょう。
七番目の「正念」(しょうねん)とは正しい心がけ
を持つ事で、自他共々幸せに導く方向に、
自分の願いをかける事です。
最後の「正定」(しょうじょう)とは落ち
着いて適切に事態に対処する事で、
慌てる事無く自分の本当に今
やるべき事を決断し、実行する事です。
以上の八つの正しい道を、釈尊(しゃくそん)は
まともな人の歩むべき実践目標として示され
ましたが、おそらく皆さんの中には「その
いずれもとても実行不可能だ」と最初
からあきらめてしまう人がいる事でしょう。
確かに、今自分の歩んでいる道を振り返って
考えてみると、こうした実践目標とはうら
はらにいかに自分がその道から外れ、だ
らしない生き方をしているかが見透か
され、自己嫌悪に陥ってしまいがち
ですが、そう気ずいただけでも、
気ずかないで自分勝手な生活
を送っているより救いようがあるというのです。
実践目標は、実現すること自体に意義がある
のではなく、実現しようとするその努力の
過程にあるのであって、最初から「不可
能だ」と投げ出して、いいかげんな
生活に自己満足してしまっている
人には、それなりの生き方しか
出来ないという事になります。
私達の一生は、泣いても笑っても、たった一回
きりしか生きられない運命にあり「もうこれで、
後は努力をする必要はない」と自己満足し
安心したとたん、心に雑草が生え、
堕落の一途をたどるようです。
人生はいつも、ただ今の連続で、その一瞬一瞬
を大切にしていかなければなりません。
バイオリニストの巌本真理(いわもとまり)(1926-1979)
さんは、「1日練習しないと自分にその結果が分かり、
2日しなければ評論家の耳がとらえる。
3日練習を休めば聴衆がこれを聞き分ける」
と言っています。
たとえ、自分の理想通りの結果が得られなくても、
絶えず正しい目標を高く掲げて、一歩一歩それに
近づくよう努力している人はそれだけでまとも
であり、救われているといってよいでしょう。
( 仏教伝道協会 みちしるべより )
今日も読んで戴き有難うございます。