道を求めるというと、とかく固苦しく窮屈に解釈
されますが、そう頑なに考えなくても「これが
自分の生きる道だ」というプランを持って
いるかどうか、と考えてもよいの
ではないでしょうか。
「そんなことはどうでもよいことだ。ゆきあたり
ばったりに過ごしても、何も不都合なことはない
じゃないか。第一そんなものを持ったところで
別にお金が儲かるわけでなし、過去の多くの
人々も、結構それなしで生きてきたじゃないか」
と反論する向きもありましょう。
むしろ、そんなものに縛られず自由奔放に振る
舞って、毎日を楽しく面白く過ごしたほうが
どれほどいいかしれない、と考える人も
いる事でしょう。
私達の人生は、ちょうど砂漠のような道な
き道を、自分という名の車のハンドルを
握って運転しているようなものです。
周囲の障害物を避けながら、なるべく安全に
快適に無事目的地にたどり着くように、運転
中時にはアクセルを踏んでスピ-ドを増し、
時にはブレ-キをかけて減速し、ハン
ドルをたえず左右に微調整しな
がら車を無事に目的地に着く
ように走らせなければなりません。
車を運転するのに、ただ当てもなくドライブ
を楽しむ人もいる事でしょうが、砂漠での
運転では致命的です。
安全な目的地にたどり着くことも出来ずに、
自分の気ままな場所を堂々巡りし、挙句
のはてはガス欠になり疲れ果てて
しまうのが関の山です。
人生行路も同様で、目的地も定めず定まらず、
そこへ至る手段も考えず、無謀な運転をし
続けていい気になっていると、いつの
間にやら自爆の落とし穴にはまり
込んでしまい、後になって気が付き、
いくら反省や後悔をしても「覆水盆に
返らず」になってしまいます。
とかく人生行路には、その目的地が不透明で
あるところから、無いものと思い込み、そこ
へ至る方法論さえも考えが及ばない
のではないでしょうか。
人によっては、人生の目的は健康だとか財産
や肩書や権力や名誉にあり、それらが獲得
できれば十分であると考え、それらを
獲得するために日夜あくせく働い
ていますが、それらはあくま
でも生活の手段であって、最終的な私達の
人生の目的ではないはずです。
人生の目的はあくまでも「幸せ」になる事で
あって、それはいくら生活の手段を獲得でき
たからと言って「棚からボタモチ」式に
得られるわけではありません。
しあわせになるためには、もちろん生活の手段
を整えることも必要で、それはちょうど運転
する車自体を、途中で故障しないようよく
整備して燃料を入れ、運転者は心身とも
に健康であることが不可欠である
ようなものです。
すなわち現在の自分を常に、人生の座標軸の
原点に置き今までたどってきた、後方を反省
しつつ、前方の自分の理想的人間像である
「幸せ」に向かって歩を進めると同時に、
上下というタテの座標軸と、左右と
いうヨコの座標軸にも、気を
配っていかなければならないでしょう。
ここで言う上下の座標軸とは、世の中の事物
をさし、そうしたものに自分が適切に対処し、
また、左右の座標とは、自分以外の人々を
さし、対人関係に自分が適切に対処する事です。
こうした、前後・上下・左右の三方に気を配る
ことを、仏教では伝統的には「三宝(さんぼう)
(仏・法・僧)に帰依する」といっています。
換言すれば「仏に帰依する」とは、「本当の自分
自身に忠実になる」ことであり、「法に帰依する」
とは、「宇宙自然の事物を縁起の法に則り確実
に見据える」ことであり、「僧に帰依する」
とは、「人びとに誠実に接する」ことです。
こうした三方に気をくばることなど「カラスの
勝手でしょ」とばかり、人生の目的や方法論も
持たずに、ゆきあたりばったりの毎日を
送るのも結構でしょう。
しかし、そうした道を据えて歩んでいった
ほうが、より安全・確実に目的に到達でき
ると信じられる人にとっては、そうした
道を歩まずに毎日を送ることは
苦痛になってくるはずです。
ドイツの文学者 ヘルマン・ヘッセ ( 1877-1962 )
はかってこう語っています。
いつも私は目標を持たずに歩いた
決して休息に達しようとは思わなかった
私の道は、はてしないように思われた
ついに私はただぐるぐる巡り歩いているに
すぎないと知り旅にあきた
その日が私の生活の転機だった
ためらいながら私は今、目標に向かって歩く
いつも夢と希望を抱いて歩んでいけるのは、
人間だけにしか許されない特権です、
それを最初から放棄してしまうとしたら何とも
もったいない事でしょう。
( 仏教伝道協会 みちしるべより )
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!